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求めることがあるなら叫びましょう
by.CGNTV
hit 219 recomend 129 2020-06-02 11:17:00

求めることがあるなら叫びましょう

 

 

ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師

 

 

[ マタイの福音書20章29~34節 ]

 

 

イエス様に向かって叫んだ盲人たち

イエス様がエリコを出て行かれるとき、道端に座って物乞いをしている2人の人に会いました。彼らは目が見えませんでした。

盲人が道端で物乞いをしているという単純な事実から、私たちがいくつか推測できることがあります。彼らにとって、人生は、昨日も今日も何ら変わりないもので、努力してもその状況から抜け出すことはできませんでした。目が見えないという条件のために、希望を持つことができませんでした。彼らにとっての夢は、その日、どれだけお金をもらえるかということだけでした。結婚したり、職に就いたり、自分の家を持ったりすることなど、想像もできないことでした。

そんな2人が、イエスが通られると聞いたとき、どんな反応を示したでしょうか。

「すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、『主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください』と叫んだ」(20:30)。

彼らは「主よ、私たちをあわれんでください!」と叫びました。大勢の群衆の騒がしい声の中でもイエス様の耳に聞こえるほど、とても大きな声でした。ここで私たちは、彼らが救われ、目が見えるようになる奇跡を体験できた第一歩は、機会がやって来た時、逃さなかったということを学ばされます。決定的な瞬間に、なりふりかまわず飛び込んだのです。

今日でも、キリストが通られるという知らせは、あちこちで聞くことができます。早天祈祷会に出た時に聞くことができ、スモールグループの集まりでも聞くことができます。ある瞬間、突然私たちの人生全体に聖霊が働きかけ、キリストが触れてくださることがあるのです。私たちが苦しみ悩んでいるとき、神様が働かれます。私たちが不治の病にかかって絶望している時、神様はすぐそばにおられます。この盲人たちは、その機会を逃しませんでした。

 

私たちをあわれんでください

目が見えず、物乞いをしていた2人の姿から、もう少し深く考えてみましょう。まず、彼らがイエス様に叫んだ言葉の中に、実に大切な言葉があります。「私たちをあわれんでください」という言葉です。実に謙遜な言葉です。

これは、献金箱にレプタ銅貨を投げ入れた、貧しいやもめの心情にも共通するものです(マコ 12:42)。自分の持っているすべてを献げたのに、恥ずかしく思っています。しかし、心の貧しくない人は、「私は、これだけしか献金できないことが神様に申し訳ないですが、どうぞ私をあわれみ、この献金をお受け取りください」と祈ることはできません。自分に何かがあると思っている人は、自分の意志や知識や才能によって、神様のために何かしてあげられると考えます。そのような人は、「私をあわれんでください」と言うことができません。「主よ、私には何もなく、私にできることは何もありません。以前は私にできることがあると思っていましたが、よく考えてみると、私には何もないことが分かりました。私は神様の御前に献げるものも、神様に求めるものもありません。ただ、あなたのあわれみを待ち望むだけです」 このような謙遜な祈りをしたいと思いませんか。

目の見えない乞食たちの叫びから、もう1つ考えてみるべきことは、彼らはイエス様のことをほとんど知らなかったということです。彼らは学ぶ機会がありませんでした。律法も知りませんでした。彼らが知っていたことは、人々のうわさを通して、イエス様がダビデの子だということくらいでした。それで彼らは「主は生ける神の御子、キリストです」という告白ができませんでした。

信仰がなく、信仰の知識もなく、イエス様について何も知らなかったとしても大丈夫です。この盲人たちのように、「主よ、私はあなただけにすがります」という告白さえあれば、それでいいのです。「これから学びます。神様、私は神様がおられなければ、生きられません。イエス様、私はよく分かりませんが、よく考えてみると、イエス様は私の主のような気がします。私を捕らえて、あわれんでください」 何千、何百もの立派な言葉をならべた信仰告白よりも、このような素直な心から出てくる告白のほうが大切です。真実な告白だからです。

 

信仰によって堂々と求めましょう

「イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。『わたしに何をしてほしいのですか。』彼らは言った。『主よ、目を開けていただきたいのです。』イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った」(20:32~34)。

これは、イエス様が2人の盲人に出会って最初にされた質問です。「わたしに何をしてほしいのですか」 私のような者でも、なぜ彼らがイエス様に向かって叫んだのかが分かるのに、イエス様はお分かりにならなかったのでしょうか。いいえ。よく分かっておられましたが、ただ目が見えるようにはなさいませんでした。ここに、もう一つ大切な教えがあります。神様は私たちの願いをすべてご存じですが、私たちが信仰をもって求めることを願っておられるということです。「その問題を、信仰によってわたしに求めてほしい」と言われるのです。

ある人は、「神様、私のことをよくご存じではないですか。すべて委ねます。最も良いもので満たしてください」と祈ります。これは信仰深い祈りのようですが、実は漠然とした祈りであり、責任転嫁する祈りです。信仰がないので、適当にごまかし、自分が責任を取ろうとしない態度が現れています。

盲人たちは、「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えました。「あなたは目を開けてくださる方であることを、私は信じます」という信仰告白がこもっています。「私を祝福してください」とは何を意味するのでしょうか。神様が祝福することのできる方だということを信じなければ、祝福を求めることはしないのです。イエス様は、この人にそのことを確認させ、訓練しているのです。

ある人は、「主のために、私はこのことをします」という祈りはしますが、自分の祈りはしません。ああしてください、こうしてくださいという祈りばかりするのは恥ずかしくて、プライドが傷つくので、そのような祈りはできないというのです。

また、主の前に出て行くときも、敗者としてではなく、勝者として出て行きたいと思っている人がたくさんいます。しかし、主は、私たちが失敗したとき、病気にかかったとき、欠乏したときに来ることを願っておられます。医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です(ルカ 5:31)。罪人だと感じている人のために、イエス様がおられるのです。謙遜にイエス様のもとに出て行きましょう。そして、この方にすがりましょう。あわれみ深いイエス様が私たちを呼んでおられます。

イエス様が深くあわれんで2人の盲人の目に触れられると、すぐに彼らは見えるようになり、イエス様について行きました。イエス様が私たちの目に触れてくださり、肉の目、閉じていた霊的な目が開かれる恵みがありますように。そして、イエス様を見て、その方について行くことができますように祈ります。

 

神様は私たちの願いをすべてご存じですが、

私たちが信仰をもって求めることを願っておられます。

 

本文は、『リビングライフ STORY 2020年6月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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