私を苦しめる人、どうしたらいいですか | |||||
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私を苦しめる人、どうしたらいいですか
イ・サンヒ ホサナ教会 主任牧師
「王の中の王」と称されたカダフィ大佐がクーデターによってリビアの実権を握っていた頃、リビアで宣教の働きをしていたある牧師の話です。牧師が搭乗したローマ行きの飛行機の離陸時間が近づいていましたが、驚いたことに再びドアが開き、1人の軍人が乗ってきました。空席がないことがわかると、彼はアジア人を指名して次の飛行機に乗るようにと言いました。その乗客は搭乗券を見せながら抗議しましたが、結局は連れて行かれました。常識も法もない暴力的な権力に凍りついた乗客たちは、飛行中ずっと息を殺していましたが、逆転が待っていました。ローマに到着すると、待っていた警察がその軍人を空港の外に連れて行き、裸にして捜査し、荷物もすべて残らず調査したのです。空港を去りながらその光景を目にした牧師一行は、「横柄にしていたのに、いい気味だ!」と叫んだそうです。今もそのときのことを考えると、スカッとするそうです。
すべての行いをさばかれる神
世には、だれであっても耐えられないほど、人を苦しめる熱心と才能を持っている人々がたくさんいます。そのような人を見て、クリスチャンの中には「神様はなぜあの人を罰しないのだろうか」「どうして神様はあんな人に我慢されるのだろうか」と疑問を抱く人がいますが、そうではありません。神様は罰を与えられます。ある時は先に紹介したように数時間で与え、ある時は何年、何十年後に与えるという違いがあるだけです。
イスラエルは「神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである」(伝 12:14)とこれを後代に知らせ、力のない者のために怒られる神様を見ながら「神は正しい審判者 / 日々憤る神」(詩 7:11)と賛美しました。キリスト教は、赦しと愛だけを強調する宗教ではなく、地獄と天国がある宗教、さばきがある宗教です。世に苦しみが蔓延しているのは、さばきがないからではなく、人々がそれぞれ自分を被害者とだけ考え、自分がほかの人を苦しめる加害者であることを認めないからです。
ハンナの人生、ペニンナの人生
子どもを産めなかったハンナにだけ悲しみと苦しみがあるのではありません。子どもをたくさん産んで育てているのに、夫がハンナだけを愛するのを見ているペニンナにも苦しみがあります。ペニンナだけがハンナを怒らせたのではありません。ペニンナの子どもたちが食べ物のことで争うのを見て、食べる子どももいないのに食べ物を2倍ももらっていたハンナも、気づかないうちにペニンナを不快にさせていたことでしょう。
ハンナの良いところは、悔しい思いをもって神様の御前に出たことです(Ⅰサム 1:15~16)。だれの人生にも苦しみがあります。そのことについて祈るなら、慰めと恵みを受けるハンナになり、人に気持ちをぶつけるなら、ペニンナになるのです。心の怒りを素材にしたドキュメンタリーを見たことがあります。幼い頃から父親に殴られたことによって生じた怒りを解決できず、自分の息子のことも殴ってしまう父親の話でした。恨みがあるなら、神の御前に出て、心の火を消さなければなりません。そうしないなら、愛する家族にもその苦々しい思いが受け継がれてしまうのです。
マナセとエフライムの名から得る知恵
ヨセフほど悔しい経験をした人もいないでしょう。また、彼ほど逆境に耐え、神様の恵みと祝福をたくさん受けた人もいないでしょう。ヨセフが逆境に耐え抜くことができた秘訣は、彼の息子たちの名からうかがえます。ヨセフは長男を「マナセ」と名づけ、「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」(創 41:51)と言いました。次男には「エフライム」と名づけ、「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」(創 41:52)とも言いました。苦しみは忘れ、良いものを心に留めることが、神様がヨセフに与えられた知恵だったのです。自分を苦しめる人や出来事を心に蓄えておくなら、自分が傷つくだけです。多くの良いものを持っていたハマンは、自分にひれ伏さない一人の人に対する怒りのために、すべてを失いました(エス 3:1, 5)。
ハマンのようにではなく、ヨセフのように生きましょう。ヨセフは、悔しいことが次々と起こりましたが、そのことばかり考えるのではなく、太陽と月と星が自分にひれ伏す日が来るという神の約束を信じる信仰を選びました(創 37:9)。神様はそんなヨセフを「ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました」(創 45:8)。良いことを心に抱いて生きるなら、良い実が結ばれます。
本文は、『リビングライフ STORY 2020年6月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。