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使徒の働きを続けていく使命
by.CGNTV
hit 617 recomend 132 2020-06-16 04:43:28

使徒の働きを続けていく使命

 

 

 

ド・ユッカン Duranno 海外宣教会(TIM)理事

 

 

私たちは、2つの時間の間で生きています。個人的には誕生と死という2つの時間の間で、宇宙的には創造と終末という時間の間で生きています。また、クリスチャンと地上のすべての教会は、イエス・キリストの昇天と再臨という2つの時間の間に存在しています。私たちは皆、その日、さばき主の前に立ち、2つの時間の間をどのように生きてきたかについて、1つ1つ告白するのです。

復活された主が昇天された場面を思い出してみてください。「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た2人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。『ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります』」(使 1:9~11)。主は、最も惨めな場所に弱々しい姿で来られましたが、多くの人々の目の前で、栄光の姿で天に上って行かれました。弟子たちが天を見つめていると、御使いたちは彼らに「どうして天を見上げて立っているのですか」と言いました。クリスチャンは、天だけを見つめて生きるのではなく、再臨の主を待ち望み、委ねられた使命のために生きなければなりません。再臨の主がさばき主として来られる時、永遠のいのちと永遠の罰に分けられます。永遠の世界が始まる前に、私たちは1人でも多くの人に、このいのちの福音を伝えなければなりません。

主は、昇天される直前に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使 1:8)ということばを残されました。今日、グローバル時代を生きている私たちにとっては、「地の果てまで行きなさい」という命令は受け入れやすいかもしれませんが、2千年前の弟子たちにとっては、とても衝撃的な命令でした。しかし、この弟子たちもふさわしいようには見えませんでした。そのことをだれよりもよくご存じであった主は、彼らに世界福音化の務めを委ねられました。そして、この福音は小アジアを通ってヨーロッパ、全世界に広まり、日本や韓国にも伝えられました。

無謀に見えた大宣教命令は、どのようにして今日のように成し遂げられたのでしょうか。地の果てまで福音を伝えなさいと命じられた主は、1つの条件を示されました。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け……地の果てまで、わたしの証人となります」と言われたのです。聖霊の助けなしには宣教は成し遂げられません。聖霊はキリストを証しする霊なので、宣教を可能にするのは聖霊だけなのです。ですから、聖霊は宣教の源泉であり、教会を通して新しい時代を開かれた方です。このように、聖霊に満たされた弟子たちが出て行って福音を伝えた働きを記したものが、使徒の働きです。

使徒の働きは、福音がどのようにエルサレムから地の果てまで広がっていったかを、歴史的、地理的に見せてくれる書です。その過程は、イエスが1章8節で語られたとおりに成就しました。福音は、エルサレムからユダヤ全土に、再びサマリアと異邦世界にまで、時には順を追って、時には同時多発的に広がっていきました。使徒の働きは、福音が全世界に広がっていく過程で、5度の転換点があったことを示しています。

最初の大きな転換点は、2章の五旬節の聖霊降臨の出来事です。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使 1:4)と主が語られたとおりに、120人ほどの人々に強力な聖霊のみわざが臨みました。彼らは人々を恐れて隠れていましたが、戸を開いて出て行き、大胆に福音を伝え始めました。主を3度も否定したペテロは「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使 2:36)と証ししました。エルサレムに大変な騒ぎが起こり、ちょうど祭りのために集まっていたユダヤ人ディアスポラが「それぞれが生まれた国のことばで」福音を聞きました。聖霊に満たされた弟子たちが宣べ伝えた福音を聞いた多くの人々が悔い改め、1日に3千人ほどがバプテスマを受けました。「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった」(使 2:42~47)。これこそ、私たちが夢見る「教会」の誕生です。聖霊の力が生き生きと現れる共同体、互いに愛し合う共同体の姿です。五旬節の聖霊降臨は、地上に教会が誕生し、世界宣教が始まったことを伝えるファンファーレでした。

第2の転換点は、8章のサマリアの町の福音伝道です。エルサレムで福音を伝えていたステパノが殉教した出来事は、宣教に新たな変化を与えました。「エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた」(使 1:8)。ステパノとともに7人の執事として立てられたピリポが、サマリアの町に下って行って福音を伝えると、多くのサマリア人がみことばを受け入れ、悪霊が出て行き、病が癒やされ、町に大きな喜びが臨みました。その知らせを聞いたペテロとヨハネが下って行って祈ると、サマリアの人々も聖霊を受けました(使 8:17)。イエスがサマリアのスカルの井戸のそばで女に福音を伝えたこと(ヨハ 4:4~42)によって種が蒔かれ、ピリポが伝道することによって刈り取ったことを見せてくれる出来事です。ユダとサマリアの長い憎しみと分裂の壁が、十字架の下で崩れたのです。

第3の転換点は、15章のエルサレム会議の決定です。パウロは、バルナバとともにアンティオキアの教会から遣わされて、キプロスとガラテヤの様々な地域で回心者を得ました。しかし、彼らのうちの一部はユダヤ人の律法に従うことを強く要求し、パウロたちと教理的に対立しました。彼らの誤った教えと主張は、ガラテヤ人への手紙を書く背景となりました。イエスを信じても割礼を受けなければ救われないというユダヤ主義者の主張が勢力を得ていたら、キリスト教がユダヤ教の追随者に転落しかねない状況でした。しかし、この重要な会議が開かれる前、神はあらかじめペテロの心を備えておられました。ペテロがヤッファで祈っていると、幻で汚れた動物が見え、「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」(使 10:15)というみことばが聞こえました。その意味について思い惑っていると、異邦人の百人隊長コルネリウスから遣わされた人々が門口に到着しました。この絶妙な神の摂理によってコルネリウスの家に招かれたペテロは、イエス・キリストの福音を伝え、異邦人にも聖霊が臨む驚くべき体験をしました。ユダヤ主義の枠に閉じ込められていたペテロの目を開き、異邦世界に対する神のご計画を見せられたのです。ペテロの決定的な証言は、エルサレム会議で3つの禁止事項のほかには、異邦世界に福音を心ゆくまで伝えてもいいという重要な決定を導き出しました。以後、パウロの伝道チームは、2次、3次にわたって福音を小アジアからヨーロッパへ、そしてローマへと福音を広めることができました。

第4の転換点は、16章のマケドニア人の幻です。小アジアを中心に巡回伝道を続けていたパウロ宣教団は、ある日、聖霊によって行く道を遮られました。「それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった」(使 16:6~7)。聖霊が彼らの道を遮り、新しい道へと導いておられたのです。トロアスに着いた時、パウロは幻の中で、一人のマケドニア人が「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と言うのを聞きます。幻で見たと言っているので、明らかな神のみこころだと断定するには早すぎますが、パウロは、それを聖霊の導きだと確信しました。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである」(使 16:10)。使徒パウロの伝道団は、この幻と状況を聖霊の導きとして受け入れたのです。ついに福音はエーゲ海を超えて、ヨーロッパの最初の都市ピリピに至り、紫布の商人リディアと牢獄の看守を中心にヨーロッパ宣教が始まりました。

第5の転換点は、未完成で終わっている28章の話です。エルサレムでユダヤ主義者の策略によって捕らえられたパウロは、カイサリアで裁判を受けることになり、カエサルに上訴して罪人の身分でローマに移されることになりました。パウロは裁判を待っていた2年間、自分の新しい家にやって来たすべての人々に堂々と福音を教えました。

使徒たちの宣教の働きは、ここで突如止まっています。もちろん、世界の心臓部ローマにまで福音を広めたということだけでも、地の果てまで福音が伝えられたということができます。しかし、今も使徒たちにはすべきことがたくさんあり、福音が必要な地と民族は実に多く残っています。ですから、使徒の働き28章は、福音宣教の終わりではなく新しい始まりなのです。まるで「この先の話は、皆さんが書いてください」とでも言っているかのようです。

地上に存在しているすべての教会は、使徒の働きを続けていく使命が与えられています。使徒の働き29章を書くべき使命のために召されています。福音を必要とする人が1人でも存在する限り、使徒の働きの話は終わりません。教会は、この使命のために建てられた共同体なのです。

私たちは皆、2つの時間の間を生きていきます。いつか福音の完成する日が必ずやって来ます。私たちは、その日まで、アルファでありオメガであるイエス・キリストを伝え続けなければなりません。使徒ヨハネが幻で見た、終わりの日の大合唱が現実になる日が必ず来るからです。「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。』御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン』」(黙 7:9~12)。

 

 

ド・ユッカン

韓国 長老会神学大学院(神学修士号)。

米国 フラー神学大学院(宣教牧会学博士号)。

韓国 ヤンジ・オンヌリ教会 主任牧師。

Duranno 海外宣教会(TIM)理事。

 

本文は、『リビングライフ STORY 2020年6月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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