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福音、すべての民のための喜びの知らせ
by.CGNTV
hit 572 recomend 108 2020-08-09 06:56:43

福音、すべての民のための喜びの知らせ

 

 

ド・ユッカン Duranno 海外宣教会(TIM)理事

 

 

今、この執筆をしている私の事務室の名は、「ソダ・カイチ ホール」です。Duranno 海外宣教会(TIM)本部のある「Acts29 ビジョンビレッジ」にある各部屋には、宣教師として韓国(朝鮮)に入って活動した海外宣教師の名前が付けられています。神の国のために人生を献げた尊い犠牲があったことを覚えるために、宣教師の方々の名前を付けたのです。毎朝、私の事務室のドアを開けるたびに、韓国の孤児の父であった曽田嘉伊智(1887~1962)先生のことを覚えます。先生は、妻の上野タキさんとともに41年間、韓国の孤児たちのために献身され、YMCA と韓国の教会に仕え、伝道にも力を注がれました。韓国人の歴史的な痛みをともに味わい、韓国人のように生き、韓国の地に埋葬された曽田嘉伊智先生は、韓国人たちから尊敬され、愛された日本人です。1962年当時は、日韓関係が最も険悪な時でしたが、韓国政府は日本人として初めてとなる文化勲章を贈り、彼の葬儀も多くの韓国人たちの哀悼の中で、19団体の共同主催で厳かに執り行われました。彼と長く親交のあった矢田牧師は、「曽田先生は日本の誇りであり、クリスチャンの鏡だった。これほど複雑な情勢になった日本と韓国の関係を緩和させることができる唯一の人だった」と評価しました。最近、再び冷却した日韓の関係を見ながら、尊い人生を歩まれた曽田嘉伊智先生の博愛と平和の精神が慕わしく感じられます。

神の国は、このように人生を献げて異邦の民のために献身する人々を通して広がります。私たちは、前回、ラルフ・ウィンター博士の理論、すなわち世界宣教の歴史を4百年単位で5つの宣教時代に分類する理論を見ました。その中で、第1期「ローマ帝国の宣教時代」と第2期「ゲルマン民族の宣教時代」、そして第3期「バイキングの宣教時代」について簡単に見ました。今回は、残りの2つの時代、私たちにとってもう少し近い時期の宣教について調べてみましょう。

 

ローマ帝国の宣教時代

0~400年

 

ゲルマン民族の宣教時代

400~800年

 

バイキングの宣教時代

800~1200年

 

イスラムの宣教時代

1200~1600年

 

近・現代の宣教時代

1600~2000年

 

第4期:イスラムの宣教時代

この時期の宣教は、キリスト教史上、最も大規模でありながら、最も悲劇的な形態でなされました。バイキングの宣教時代が終わろうとしていた頃、イスラムの増加に脅威を感じた欧州の教会は、聖地の回復という名のもと、7度にわたってイスラム教徒の地域に遠征します。名目上は宗教戦争でしたが、背後には政治的、産業的な野望と貪欲があり、教会は誤った熱心によっての戦争の支援者となりました。十字軍は、行く先々で略奪や放火、虐殺を繰り返し、特に1099年、エルサレムを征服した当時、7万人を虐殺するという過ちを犯しました。十字軍戦争はすべて、バイキングの子孫が主導したものでした。皮肉にも、バイキングの宣教の実が宣教の本質を損なわせる結果をもたらしたのです。十字軍戦争は、今日でも中東の人々の心を閉じさせるという結果を生み、イスラム教徒への宣教の最も大きな妨げとなっています。ランプ・ウォーターは「十字軍戦争から得られる教訓は、神に対して犠牲的な献身があっても、それが神のみこころを正しく理解したものでないなら、大きな悲劇をもたらしうる」と指摘しています。良い動機と熱心があっても、聖書的でない方法を用いるなら、その宣教の結果はむしろ逆効果になるということを教えられます。

この時代に神のみこころを宣教的に成し遂げようとした人に、アッシジのフランチェスコとレイモンド・ラル(Raymond Lull)がいました。彼らは、神の国を広げていく方法は、戦争や暴力ではなく、柔和な福音のみことばであることを悟り、実践に移しました。このような托鉢修道士たちの清貧と奉仕が、宣教のより大きな実を結ばせたということを、私たちは教会史を通して知ることができます。宣教の本質を守ることが、私たちの情熱よりも大切なことを教えてくれる時期です。

一方、14世紀の中頃になると、新しい侵入者である黒死病(ペスト)により、ヨーロッパとキリスト教世界は大きな被害を受けました。約40年の間にヨーロッパの人口の3分の1が黒死病によって失われ、彼らを積極的に看ていた多くの修道士たちも死んでしまいました。ヨーロッパは廃墟となり、ローマ・カトリック教会は大きな混乱に陥りました。極端な人本主義者たちが台頭し、農民たちの一揆によって暴力が横行するようになりました。貧困と恐れ、混乱によって深まった闇が、宗教改革の新しい朝に備える背景になったことは、もう一つの神の逆説だと言うことができます。私たちが直面しているコロナウィルスは、宣教のまた別の時代を開くチャレンジにもなりうるかもしれません。

また、印刷技術が発達し、聖書がドイツ語で翻訳出版され、多くの人々に新しい教理を速やかに広めるための道具になりました。しかし、この時期からプロテスタントの宣教は、約200年近く沈黙の時代を迎えます。ローマ・カトリック教会が全世界的な宣教運動を広げていく間、プロテスタント教会はたった一人の宣教師も遣わすことができないまま、教会内部の問題に没頭していました。

 

第5期:近・現代の宣教時代

マルティン・ルターの宗教改革(1517年)の後、約100年が過ぎた頃には、神聖ローマ帝国の反宗教改革政策を支持するローマ・カトリックの国家と、これに反対するプロテスタント国家の間に戦争が起こり、約30年も続きました。この戦争は、単なる宗教間の葛藤を超え、国々の利害関係のからんだ専制君主制と封建制度の対立だと言うことができます。しかし、その結果は、飢饉と疾病が悪化し、戦争の中心地となったドイツは人口が3分の1になるほどの廃墟となりました。この戦争によって国家が荒廃し、教会が不平等と惰性に陥ると、フィリップ・シュペーナーは信仰の覚醒を主導するドイツ敬虔主義運動を起こします。彼から影響を受けたツィンツェンドルフ伯爵は、1722年、迫害中にも信仰を守り、モラヴィアから逃れてきた難民たちを自身の領地に定着させ、後には彼らの指導者として指名されました。「主が呼ばれる所であれば、どこへでも行って主のために仕えよう」をスローガンとするモラヴィア兄弟団は、全世界に福音を伝えるために献身しました。1732年以後、150年以上も昼も夜もなく働き、宣教祈祷会を続け、2千人を超える信徒宣教師を派遣し、ヨーロッパのリバイバルと宣教運動に大きな影響を与えました。200年間、眠っていたプロテスタントの宣教を目覚めさせ、初代教会以後、再び「自発的に出て行く宣教」の原型を示すものとなりました。

モラヴィア兄弟団によって、ジョン・ウェスレーやジョージ・ホイットフィールドなどが大きな影響を受け、だれよりも彼らの影響を受けた人は、現代の宣教の父と呼ばれるウィリアム・ケアリー(1761~1834)でした。彼が書いた小冊子「異教徒改宗の手段を用いるキリスト者の研究」は、現代の宣教に新しい時代を開く契機となりました。宣教学者ラルフ・ウィンター博士は、1800年以降の200年を「プロテスタント宣教史の新しい時代」と称しました。

1期:海岸宣教時代(1792~1910年)

イギリスの貧しい靴屋の見習いであったウィリアム・ケアリーは、18歳の時に回心し、26歳の時にモウルトンバプテスト教会で牧師按手を受けました。1792年、ノッティンガムのバプテスト教会教職者連合会でイザヤ書54章2~3節のみことばから「神からの偉大なみわざを期待し、神のために偉大なことを試みよ」という有名な説教を残します。この説教が宣教師の派遣のための最初の宣教会を設立するきっかけになり、これが現代プロテスタント宣教の起源になりました。彼は、アジアやアフリカ、アメリカの未伝道地域を研究し、地域の教会に宣教に加わるよう促し、宣教の使命を効果的に行うためには、専門的な宣教団体と宣教委員会が必要だと力説しました。ウィリアム・ケアリーは、1792年に設立されたバプテスト教会宣教会の初代宣教師として、インドのカルカッタに派遣され、同労者とともに聖書翻訳に力を注ぎました。結果的に、新旧約聖書は3つの言語に、聖書の一部は46の方言に翻訳されました。このような彼の人生とチャレンジは、アメリカの学生宣教運動に火をつけました。サミュエル・ミルズを中心にした祈祷会が「干草祈祷会」になり、アメリカ海外宣教委員会が設立されるに至りました。

 

2期:内陸宣教時代(1865~1980年)

それまで西欧諸国の貿易代表部に属し、比較的安全な海岸線を中心に進められてきた宣教を、内陸に広げた人が、ハドソン・テイラー(1832~1905)です。彼は、16歳の時、中国宣教に対する召しを感じ、中国についての学びと医学の学びを始め、宣教地での生活を念頭に置いて、貧困と清貧、素朴な生活を実践し、敬虔な生活に力を注ぎました。「神を通して、ただ祈りによって動け」というスローガンのもと、あらゆる実際的な必要をただ神が満たしてくださることを待つ信仰宣教(Faith Mission)を原則として立てました。彼は、中国の内陸に入って中国の服を着、頭は弁髪にして活動し、中国内陸宣教(現在のOMF)を設立し、中国の霊的な必要と要求を力説し、多くの宣教資源を動員しました。彼が亡くなった頃には、1500名の宣教師が中国の内陸で活動し、学生ボランティア運動とともに、2万人の現地宣教師と8万人の派遣宣教師を送り出しました。この頃、アメリカでは、数度にわたるリバイバル運動によって勢いを増し、世界宣教を主導する新しいリーダーになり始めていました。

 

3期:未開地宣教時代(1934年~現在)

20世紀に入って、宣教の基本単位が国家から民族に変わりました。キャメロン・タウンゼントとドナルド・マクギャブランは、宣教の対象を人種的、言語的、文化社会的な種族集団に細分化させた先駆者です。キャメロン・タウンゼントは、学生ボランティア運動に感動し、大学を中退してグァテマラで聖書販売員をしていたとき、グァテマラ・インディアンから「あなたの神がそんなに偉大だと言いながら、どうして我々の言葉も話せないのだ」と言われ、部族の言語で聖書の翻訳を始めました。これがウィクリフ聖書宣教会設立のきっかけになりました。現在は4千人の宣教師が献身し、400ヶ国語に聖書が翻訳され、700ヶ国語が翻訳中です。一方、ドナルド・マクギャブランの両親はインドの宣教師でしたが、彼自身もインドの宣教師として活動した後、フラー神学大学院の初代学長となりました。彼は、この世は政治と地理によって区分された国家集団ではなく、言語と人種によって区分されている民族単位からなっていると強調しました。同質集団(民族)だけの独特な共同体的な特徴は、宣教の障害にもなり得るが、集団改宗の背景にもなり得るということに気づき、これを宣教理論化し、民族宣教の新しい観点をもたらしました。

特にラルフ・ウィンター博士は、民族宣教に対して、理論的かつ実際的に貢献し、1974年のローザンヌ世界福音化大会で「未開地宣教」を初めて主張し、民族宣教の新しい地平を開きました。ヨシュア・プロジェクトによれば、2014年を基準に、世界の1600の民族のうち、まだ7000の民族が未開民族として残っています。その中で宣教師も聖書もないのは、3400民族だそうです。今も、だれかの献身と従順が必要だということです。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタ 24:14)。今こそ、この使命のために、日本の教会が担うべき領域について考える時なのではないでしょうか。

 

ド・ユッカン

韓国 長老会神学大学院(神学修士号)。

米国 フラー神学大学院(宣教牧会学博士号)。

韓国 ヤンジ・オンヌリ教会 主任牧師。

Duranno 海外宣教会(TIM)理事。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2020年8月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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