福音、しもべの姿で文化の壁を超える | |||||
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福音、しもべの姿で文化の壁を超える
ド・ユッカン Duranno 海外宣教会(TIM)理事
私は、宣教コラムを書く特権をいただき、毎回、心を込めて書いています。ご存じだとは思いますが、私の書いた韓国語の原稿は、翻訳者によって日本語で日本の文化に適切な表現に訳されています。翻訳者の知識と労苦がなければ、私の文章や考えを皆さんと分かち合うことはできなかったでしょう。言語の壁が私と皆さんの間を遮っているからです。私と皆さんのコミュニケーションは、翻訳という文化的な形態を経てなされています。
私たちに救いをもたらしてくれた福音は、「神のことば」という道具を通して私たちに与えられました。神のことばが私たちに理解できない神秘的な暗号ではなく、人間が読み、悟ることができる言語として与えられたことは、どれだけ大きな恵みでしょうか。時間と空間を超越された創造主が、人間の文化の中にご自分を啓示された出来事が、まさに受肉(Incarnation)です。神の言語ではなく、私たちの目の高さに合わせた言語で、神の愛を証しされた出来事を、使徒ヨハネは「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハ 1:14)と表現しました。
神は、ことば一つで世界を創造されましたが、人類を救うために、ご自分の力を用いず、つらく、非効果的に見える方法を選ばれたのです。人類の救いのためのみわざは、天上会議の結果を公に発表するという方法によって行われませんでした。神の御姿であられるイエスが、人間の力では決して越えられない罪の谷間を通って、人間の姿で私たちの文化の中に入って来られたのです。時間と空間に制限されない永遠なる方が、私たちの限界の中に自らを閉じ込められました。それも、スーパーマンのように強い力を持った将軍としてではなく、実に無力で弱い赤ん坊の姿で来られました。ほかのすべての赤ん坊が経験する成長の過程を、同じように通られることにより、完全に人間になられたことが証明されました。完全な神が完全な人間になられたのです。
これが、宣教の神秘です。キリストは徹底的に低くなられ、しもべの姿で十字架を負われることにより、私たちに救いの道を開いてくださいました。受肉がなければ宣教は始まりませんでした。キリストが人となられたように、すべての宣教の過程は、徹底して低くなり、犠牲を払うという原理に従わなければなりません。宣教は、キリストが人となられた人生を実践することです。実際、宣教師たちは、他文化圏に定着すると、小さな赤ん坊のように、すべてのことに無知で無力な存在になります。現地の人の助けがなければ、定着することも生活することもできません。大海原を渡り、高い山脈を越えることよりももっと苦しく大変な課題は、文化の壁を越えることです。その期間が宣教師にとっては謙遜を学び、現場に同化していくための大切な過程です。自分を与えるためには、必ず現地の人々から学ばなければならないということを、身をもって経験します。
では、文化とは何でしょうか。ポール・ヒーバートは、文化とは「観念と感情と価値の統合された体系及びこのような関連した行為の形態と、彼らが考え、感じ、行動することを組み立て、規則化する人々の集団によって共有された産物」と定義しました。つまり、文化とは、一つの民族、一つの社会が持っている集団の性格と価値観であると言えます。私たち各個人が、性格や価値観によってライフスタイルや行動の仕方を決めるように、一つの社会を構成しているメンバーが集団的に共有しているものを文化と呼ぶのです。
ロイド・クワストは、文化を四つの層を構成している同心円によって説明しました。第一に、一番外側に現れる「行動」は、日常生活で起こるすべてのことを含みます。社会構成員が無意識的・習慣的に共有する行動の特徴です。ある出来事に対して、一定のパターンで特定の行動として現れるものです。
私が仕えていたスリランカと南インドの人々は、食事をするとき、おもに右手を使って食べます。箸を使う私たちから見れば、彼らの食事法は衛生的ではないと思えるかもしれませんが、彼らは私たちが使う箸は、いろいろな人が使うものなので、そっちのほうが衛生的ではないと考えます。また彼らは、対話中に同意したことや理解したことを表すとき、頭を横に振ります。日本や韓国では、断ったり理解できなかったりするときに示す行為と似ているため、初めは誤解したこともありました。意思表現の仕方が違うのです。私たちは、懐かしい人に会ったとき、主に握手をしますが、新型コロナウィルス以来、接触行動を控えることが、むしろお互いへの配慮として受け取られるようになりました。
第二に、「価値観」は、現れた行動の仕方を決定する重要な要素になります。価値観とは、一つの社会が共通して正しいと考え、選択するときの基準であると言えます。それによって、構成員たちは、ほぼ同じような行動をとります。他人に迷惑をかけないことを大切だと考える日本人は、お互いに配慮し、ことばや行動に注意します。
このような価値観は、第三の「信仰」体系に影響を与えます。文化を背景とした信仰、つまり信念は、「何が真理か」という問いに対する答えを決定づけます。このような信念は、長い間、その文化の中で学習と経験を通して認識された真理なので、なかなか変わりません。
四つ目は「世界観」です。文化の最も深層にある世界観は、「何が実際か」という根本的な問いに対する答えを決定づけます。社会構成員は、これを人生の基礎とします。宗教が最も大きな影響を及ぼす領域です。このように、表面に現れたある行動は、その社会の価値観の影響を受け、価値観は信仰によって支えられ、信仰は世界観によって支えられています。このように、文化は一つの社会が長い時間と経験を通して蓄積してきたものなので、簡単には変わらない、複雑なものです。ですから、私たちに与えられた福音が一つの社会の深層構造まで変化させるためには、時間と知恵が必要なのです。
私たちが宣教をするとき、多文化を理解するべき理由は何でしょうか。現地の文化をよく理解しないで福音を伝えるなら、福音が持っている本来の意味がずれてしまったり、正しく伝わらなかったりするからです。また、その地域の文化を十分に理解しないまま福音を伝えるとき、拒否感や抵抗を抱かせ、福音を伝えることができなくなるからです。
同時に韓国人宣教師がよく犯しがちな失敗の一つは、文化と福音をよく区分せず、福音の本質とは関係のない自国の文化を伝えようとすることです。教会の建築様式や牧会者の服装、礼拝の形式、信徒たちの生活の規則などは、すべての文化圏に一般化できないにもかかわらず、そのまま適用しようとする傾向がありました。特に韓国の教会は、西欧の宣教師から福音を受けた後、大きな成長を経験し、宣教大国に成長してきた経験を、現地にそのまま適用しようとする過ちを犯しやすいのです。
インドの伝道者であるムルティは、宣教師の骨身にしみる忠告をしたことがあります。「福音を鉢に植えて持って来ないでください。福音の種を持って来て私たちの地に蒔いて育つようにしてください」 宣教師の本国の文化を着せられた福音ではなく、現地の土壌や気候に合い、よく成長する福音の種を植えなければならないという意味です。自国文化中心主義を警戒しなければなりません。ごく早い時代から多くの西欧の宣教師たちが福音宣教をしながら、西欧の文化を福音と同一視する過ちを犯してきました。しかし、現OMFの前身である中国奥地宣教団(CIM、チャイナ・インランド・ミッション)を創立したハドソン・テーラーは、中国に到着した後、西欧の服を脱いで中国人の衣服を着、頭は弁髪にし、中国人の慣習に従いました。食生活や住居、言語まで、積極的に現地人のようにしようと努力した結果、中国人たちの心を得ることができ、中国の奥地まで入って福音を伝えることができました。私が訪れた中国の様々な地域の教会がCIMの宣教師たちの実でした。現地の人々と同じ姿になって福音を伝える宣教の良いモデルです。
しかし一方で、現地の文化を受け入れすぎないよう気をつけなければなりません。混合主義とは、キリスト教の形はしていても、信仰の本質がゆがめられ、現地の文化と混在することを意味します。中南米地域を植民統治していたスポインとポルトガルのローマ・カトリックは、現地の文化を受け入れすぎた結果、福音の内容まで変質してしまいました。彼らが伝えたマリアは、現地の女神崇拝思想と結合した混合主義の性格を持つようになり、多くの迷信がフィルターにかけられないまま教会の中に浸透してしまいました。結果的に、簡単に改宗しても、福音の本質を守ることには失敗した、文化的相対主義の前例になってしまいました。
私たちは、現地の文化の服を着ていても、福音の意味を失わないで土着化されることを目指さなければなりません(常態化)。韓国の教会の早天祈祷会は、朝早く農作業を営んでいた農業文化の精神を重要視するシャーマニズムを背景としていますが、韓国の教会の成長の重要な牽引力となったことは否定できません。しかし、賛美の場合には、韓国人の情緒の深いところにある固有のメロディーとの融合に失敗し、西欧的音楽が主流になっています。使徒パウロは、コリント人への手紙第一9章で、宣教の柔軟性をどのように持つべきか、良い手本を示しています。パウロは、ユダヤ人たちにはユダヤ人のようになってユダヤ人を獲得しようとし、律法のない者には律法のない者のようになって律法のない者を獲得しようとしました。「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです」(Ⅰコリ 9:23)。これは、目の高さを合わせた常態化宣教の手本です。
どの時代、どの地域でも、宣教の現場で福音と文化の関係は最も重要な課題です。その目的は、一人でも多く救うためです。たましいを獲得するためには、心を得なければなりません。その人たちの心の中にある文化をよく理解するとき、彼らに効果的に福音を伝えることができます。同時に、受肉的宣教は、同一文化圏である自国でも必要です。私たちはすでに聖書のみことばに基づいた世界観を持っていますが、多くの隣人は世俗的なことに価値を置いて生きています。彼らのたましいの深いところにキリストを伝えるためには、彼らの目の高さに合わせて伝道するよう努力しなければなりません。私たちは文化の支配を受けて生きていますが、同時に文化の変革者でもあります。私たちが持っているこの福音は、世を変える最も大きな力です。その力がまず私の生活の場で現れなければなりません。私たちにイエス・キリストが必要であるように、私たちの隣人にもイエス・キリストが必要です。キリストを経験した人だけが彼らの必要を満たすことができます。私たちがまさにその人です。
ド・ユッカン
韓国 長老会神学大学院(神学修士号)。
米国 フラー神学大学院(宣教牧会学博士号)。
韓国 ヤンジ・オンヌリ教会 主任牧師。
Duranno 海外宣教会(TIM)理事。
本文は、『リビングライフ STORY 2020年9月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。