主が癒やしてくださるのに医学は必要ですか | |||||
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主が癒やしてくださるのに医学は必要ですか
イ・サンヒ ホサナ教会 主任牧師
「太陽よ、ギブオンの上で動くな」(ヨシ 10:12)。ヨシュアがこのように祈ると、本当に太陽が止まりました。聖書は「主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった」(ヨシ 10:14)と言っています。私の知り合いの牧師は、中高生の頃、このみことばで試みられました。彼も太陽を止めてほしいと祈りたかったのですが、「このような日は後にもなかった」というので、機会すらないではないかと思ったのです。落胆した思いをなだめながら夜通し祈りましたが、明け方、かすかな声が聞こえました。「太陽が地球の周りを回っているのか。地球が太陽の周りを回っているのか」 それで彼は「ああ、止まったのは太陽ではなく、地球ではないか」と気づき、「ヨシュアのような無知な祈りによって神様を困らせてはいけない」という意味で、神様が私たちに科学を与えてくださったのだと悟り、それからは祈りだけでなく、勉強も熱心にするようになったそうです。
科学と医学を与えられた神様
笑いながら聞いた証しですが、彼の話を通して宗教と科学の関係について考えさせられました。宗教と科学、信仰と理性は、互いに排他的関係ではありません。理性と科学は神様から与えられたものであり、神様はそれを用いられます。例えば、1990年代初めに読んだ、ある医師の記事によると、60年代には2キログラム未満の子を未熟児と考えたそうです。それ以下の体重の子どもが生まれると、医学によっても生かすことができないため、風呂敷に包んで道のごみ箱にこっそり捨てる親もいたそうです。しかし、90年代には、1キログラムを超えれば生かすことができ、科学の発展と生命尊重の精神はともに歩むものだと主張されていたことが記憶に残っています。今はどうでしょうか。数年前、ある信徒が530グラムの子どもを出産しました。その子は、最先端の医学と信徒たちの祈りによってしっかり育ち、7歳になりました。その数ヶ月前には、別の信徒が430グラムの子どもを生みましたが、その子もまた医学と祈りによってすくすくと育っています。神様から与えられた医学が、神様の奇跡の道具となったのです。
科学を尊重する信仰、信仰を尊重する科学
今年、全世界が新型コロナウイルスによって苦しんでいます。多くの教会が、集まって礼拝をささげることを中断し、理知的に対処しました。歴史的見て今回のような理知的対応は、教会に常にあったものではありません。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には、尊敬されていた修道院長が死んだとき、彼の死体から香りではなく悪臭が出たため、多くの信徒たちが試みにあったという内容が出てきます。作品が発表された1880年頃にも、非科学的な考えが教会に広がっていました。それ以前であれば、なおのことです。
ピーテル・ブリューゲルの描いた『死の勝利』(1562)は、ペストを素材にした作品ですが、骸骨で表現されているペストの攻撃を避けて、人々が木の箱の中に争いながら逃げ込もうとしています。その密閉空間は、実は死の場所なのですが、上に開いている扉の十字架の模様は、それが教会であることを伝えています。扉の両側には、骸骨の群れが十字架の刻まれた棺を持って並んでいます。教会が棺になったという意味です。ブリューゲルは、この絵によって、伝染病に対する教会の非科学的な対処を厳しく批判しました。2020年の教会が科学を尊重してコロナにうまく対処したように、急速に発展する科学も、謙遜に信仰を尊重してくれることを期待します。
愛し合いながら生きるように与えられた医学
最近、愛する人々が続けて亡くなりました。父と義母、障がいのために生涯一人で暮らしながら筆者に頼っていた従姉、留学時代に忘れられないほど愛を注いでくれた碧眼の恩師が、天に召されました。虎のように強かった父の無気力な老年の姿を思い出すたびに、寂しいから頻繁に電話してほしいといった義母が住んでいた家の前を通るたびに、か弱いからだにラクダのようなこぶを背に抱えて生きた従姉のほほえみを思い出すたびに、老人ホームで過した尊敬する学者の孤独な老年を思い出すたびに、胸の痛む思いで悟らされます。神様が愛する人々の老年に病気を与えられるのは、私たちに愛するチャンスを与えるためであることを。医学は神様が私たちの手に握らせてくださった愛の道具です。医学が十分でないからではなく、愛が十分でないために、いつも胸が痛むのではないかと思わされます。
本文は、『リビングライフ STORY 2020年10月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。