この世はなぜ不公平なのでしょうか | |||||
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この世はなぜ不公平なのでしょうか
イ・サンヒ ホサナ教会 主任牧師
水を飲んだだけで太る人もいれば、いくら食べても太らない人もいます。一を聞くと十を知る人もいれば、学びの時間が苦痛な人もいます。人の能力は明らかに先天的で不公平です。能力の有無に限らず、チャンスが来るかどうかについても不公平です。金持ちの家に生まれて日常的に良い機会に恵まれている人もいれば、貧しい家に生まれて戦争のような毎日を送る人もいます。神様はなぜ私たちをこのように不公平に造られたのでしょうか。
能力と環境の違いではなく、神様の御手にかかっている未来
不公平だと不満を言い、秀でた能力やチャンスを求める私たちに、伝道者は語ります。彼が生きてみたところ、足が速いからといって先に着くわけではなく、勇士だからといって戦いに勝つわけでもなく、魚が網にかかり、鳥が罠にかかるように、人にも予期せぬ時に予期せぬわざわいが襲い、一瞬で滅びる人もいるというのです(伝 9:11~12)。網と罠から救ってくれる手があれば、魚は再び力強く泳ぎ、鳥は再び空を飛ぶことができます。そのように、人もわざわいから救ってくださる神様の御手があれば、前向きな人生を送ることができます。伝道者は、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝 12:13)と結論づけています。
伝道者が悟ったように、人の未来は、能力と環境ではなく、神様にかかっています。ダビデは「私の時は御手の中にあります」(詩 31:15)と告白し、「若い獅子も乏しくなり / 飢える。しかし / 主を求める者は / 良いものに何一つ欠けることがない」(詩 34:10)と告白しています。これは、ハンナの祈り(Ⅰサム 2:1~10)に込められたイスラエルの信仰告白であり、マリアの賛歌(ルカ 1:46~55)に込められた教会の信仰告白でもあります。伝道者は「神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである」(伝 12:14)と言っていますが、この信仰によって生きてきたかどうかが、さばきの判断基準です。喜びの時に賛美し、悲しみの時に祈っていたか、それとも喜びの時に神から離れ、悲しみの時に神様を恨んではいなかったかを見て、さばかれるのです。神様が私たちを不公平に造り、この世に不公平なことを許されたのはこれを見極めるためであるというのが、伝道者の悟りです(伝 7:13~14)。
不平等が祝福になり、平等がわざわいとなることもある理由
平等の問題であれ何であれ、ものごとの良し悪しは簡単に結論づけることはできません。韓国の詩人ソン・ミョンヒは、脳性麻痺のために、ほかの人にある健康と富を持つことはできませんでしたが、そのことによって、ほかの人々には聞こえない声を聞き、ほかの人々が受けることができない愛を受けたと、公平な神様をたたえました。神様に出会った人には不公平も祝福のきっかけになるので、不公平がただ悪いとばかりは言えません。ある不公平が、希望を与えてくれることもあるからです。私の愛する人が、ほかの人と同じように私に接したら寂しさを覚え、自分を特別扱いしてくれたら幸せな気持ちになるのは、愛の属性がそうだからです。私たちは、平等を願って生きていますが、平等が偶像になってはいけません。共産主義は、平等社会ユートピアだと主張しますが、「私の幸いは / あなたのほかにはありません」(詩 16:2)というダビデの告白のように、神様がともにおられないところは、そこがどこであれ、私たちの願うユートピアではないのです。
エジプトにはナイル川が流れているので、農業に必要な水をたやすく得ることができます。しかし、神様はイスラエルをエジプトから連れ出し、山と谷が多くて農業するには困難な場所、雨を吸収する土壌のために貯水池を見つけるのも大変な場所へと導かれました。肥沃な地を離れさせ、荒涼とした地へと導かれた理由は、その荒涼さのゆえに、年の始まりから終わりまで、神様の目がいつもその地に注がれ、そこに住む人々を顧みてくださることを教えるためです(申 11:10~12)。個人も民族全体も、時にかなって雨を降らせてくださるように祈りながら天の神様と目を合わせることによって、尊い存在へと変えられていきます。地上から目を上げて天の神様を見つめることが、幸せな未来を開く知恵です。かがみこんで私たちを顧みてくださる神様と目を合わせるとき、幸せな未来が開かれるのです。
本文は、『リビングライフ STORY 2020年11月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。