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実のならない人生になってはいけません
by.CGNTV
hit 180 recomend 92 2020-12-01 01:02:13

実のならない人生になってはいけません

 

 

ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師

 

 

[ マタイの福音書21章18~22節 ]

 

実のならないいちじくの木

「さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に『今後いつまでも、おまえの実はならないように』と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた」(21:18~19)。

あわれみ深いイエス様が、実のなっていないいちじくの木を見てのろわれたとは、実に不思議です。弟子たちは、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」(21:20)とイエス様に尋ねます。

なぜイエス様はそのような行動をされたのでしょうか。そこには霊的な理由があります。一本のいちじくの木でも、葉があるだけで実を結ばないなら、のろわれるということです。これは、私たちが、自分はクリスチャンだと言いながらも、生活の中で霊的な実がないなら、そのようにのろわれるという意味です。

実には、内的な実と外的な実があります。内的な実とは、人格の実です。イエス様を信じれば、この世の性質、サタンの性質がなくなり、キリストの性質へと変わります。それが実です。イエスをどんなによく信じ、教会に熱心に通い、奉仕を熱心にしても、頑なな心、プライド、利己心など、この世的なサタンの性質が残っているなら、実のない人です。

外的な実とは、御霊の実であると同時に、伝道の実が結ばれることです。つまり、伝道の実を結ぶことができなければ、実のない人生なのです。

 

実を通して分かる信仰

信仰的に美しく飾っても、それは信仰とは言えません。山上の説教でイエス様が繰り返し語られたのは、「あなたの見た目よりも重要なのは、内的状態だ。あなたがどんなことを話すかよりも重要なのは、心の動機がどうなのかということだ。殺人や姦淫を犯さなかったとしても、心の中で憤っているなら、すでに人を殺しているのだ」ということです。今、私たちが内面で考えていることが、私たち自身なのです。人が最もよく騙されるのは、自分自身です。私たちは、自分のことをいい人だと思っていますが、霊的な実態を見れば、そうではないことが分かります。イエス様が、葉があるだけで、実のないいちじくの木をのろわれたように、内面の世界に実がなく内容がなければ、さばきの対象になるのです。

イエス様は「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります」(15:8)と言っておられます。聖霊が臨めば、必ず実を結びます。聖霊のない働き、祈りのない働き、イエスのない働きには、すべて実がありません。神の国の働きは、人の目はごまかせるかもしれませんが、神様の目はごまかせません。ですから、その働きに祈りがあるのか、聖霊がおられるのか、イエス様がおられるのかを、省みなければなりません。働きが華やかであるか、成功したかということは重要ではありません。そこに実があるのか、本当に主が栄光をお受けになるのかが重要なのです。

 

無限の信仰の世界

弟子たちは、いちじくの木がすぐに枯れたのを見て驚きました。彼らの疑いは、イエス様の力に対する疑いでした。

「イエスは答えられた。『まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言えば、そのとおりになります。あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります』」(21:21~22)。

奇跡は、どのようにしたら起こるでしょうか。イエス様によれば、信じて疑わないなら、起こります。実にシンプルです。しかし、ここで気をつけるべきことは、信仰が奇跡を起こす力ではないということです。力はどこから来ますか。神様からです。救いはだれが与えますか。信仰が与えるのではありません。神様です。

イエス・キリストが救いです。神様が力であり、奇跡であり、救いです。では、信仰とは何でしょうか。神様にある力や奇跡を、私の人生にもたらす手段が、信仰なのです。信仰があれば、神様の力と奇跡が私に臨むのです。

私たちは、神様が生きておられることを信じ、その力を信じます。しかし、その力が私の上に働くということは、あまり信じません。「神様にはできるけれど、私はだめだ」と考える人が多いのです。イエス様は、信仰の原理について具体的なイメージを見せてくださいました。それは、私たちが信じて求めれば、そして疑わなければ、いちじくの木が枯れる程度ではなく、山に向かって海に入れと言えば移るというのです。驚くべきことです。

イエス様は、私たちの信仰の世界を、想像を絶するところまで引き上げてくださいました。「信仰の世界は、それ以上のものだ。あなたがたは、わたしよりも偉大なことをすることになる」とイエス様は言われます。霊的な世界、信仰の世界には、このような想像を超えた無限の可能性があるというのです。それが、神様の世界であり、力の世界であり、奇跡の世界であり、霊の世界です。その霊の世界と奇跡の世界を、私たちのものとする秘訣を、イエス様が教えてくださいました。「それを信じて疑わないなら、そのようなことが、あなたがたの信じたとおりになる」というのです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタ 7:7)。

私はこのみことばが大好きです。これは、人間の想像力や精神力とは全く違う次元のものです。

 

信じて疑ってはならない

私たちの生活の中には、不可能なことや障害物や苦しみがたくさんあります。どんな人でも、それぞれ壁や絶望を経験します。そして、それらを乗り越えようと、自分なりにもがいています。しかし、イエス様は今日、私たちに語られます。「いちじくの木が、一瞬で枯れたのを見たか。神様がしてくださると信じて疑わないなら、山が海に入る!」

私たちには、このような信仰が必要です。そして、その力を経験しなければなりません。今から始めるのです。今すぐ、私たちの現実に何も起こらなかったとしても、信じてください。それが神様の約束であり、みこころです。私たちのうちにある人生の重荷は、キリストが取り除いてくださいます。憎しみや怒りも、取り除いてくださいます。私たちの性格も、イエス様が変えてくださるでしょう。

神様よりも強い方が、どこにいるでしょうか。神様と対決しても、神様が必ず勝利されます。私は、私たちの人格がさらに変わり、イエス様のような人格になることができると信じます。神様が、イエス様の満ち満ちた身丈にまで私たちの人格、人生、信仰、すべてを引き上げてくださるでしょう。そのように信じて疑わないでください。私たちのすべての重荷は、必ず取り除かれます。これが、イエス様が私たちに与えてくださるメッセージなのです。

 

 

聖霊が臨めば、必ず実を結びます。

聖霊のない働き、祈りのない働きは、実がありません。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2020年10月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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