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天から来た権威に従いなさい
by.CGNTV
hit 2083 recomend 114 2020-12-16 10:44:04

天から来た権威に従いなさい

 

 

ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師

 

 

[ マタイの福音書21章23節 ]

 

エルサレムに入られたイエス様は、再び宗教指導者たちによって試みにあわれます。彼らはイエス様の権威について問い始めます。

「それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。『何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか』」(21:23)。

これは、「あなたが教えているのは、政治的権威か、宗教的権威か、社会的権威か、それとも何らかの霊的な権威か」という質問であり、また「その権威はだれから受けたのか」という質問です。なぜ権威がそれほど重要であり、その権威と私たちの信仰にはどのような関係があるのでしょうか。

権威の根拠であられる神様

なぜ権威が重要なのでしょうか。権威は神様ご自身であり、権威の根拠も神様ご自身だからです。神様が宇宙で最高の権威者であられるので、権威はそこから出ます。ですから、私たちが権威を否定するなら、神様を否定しているのであり、神様を否定するなら、信仰そのものが否定されるのです。

神様は、自ら存在される方です。だれかによって創造された方ではありません。神様は根本中の根本、絶対的無限の方、力に限界がなく、どこにでもおられる方、完全な方であり、それが権威の根拠なのです。

そして、神様とともに、もう一つの権威があります。それは聖書です。聖書は、神様が様々な時代にわたって御霊によって人々を導き、神様が直接書かれた書です。ですから、聖書は永遠の神様のことばとしての権威があるのです。

私たちの信仰は神様によって形作られました。不安だからと自分で作り出したものは、信仰ではありません。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました」(ヘブ 1:3)。権威がなければ、すべては崩れ、根拠がなくなります。神様を否定することは、権威そのものを否定することです。そして、その権威が否定されれば、人の存在価値と万物のすべてが否定されるのです。

 

世の秩序が動く原理

では、このような権威は、だれに与えられるのでしょうか。まず神様は、この権威を世に与えられました。それが、世の秩序が動く原理です。ローマ人への手紙を見ると「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」(13:1)と言っています。この権威が崩れれば、世は大混乱に陥ります。サタンは実に狡猾です。権威が重要なので、それと似たような権威主義を作って権威の重要性を覆ってしまいました。私たちは、霊的にそれを見分けなければなりません。

次に、神様は、この権威を家庭に与えられました。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです」(エペ 5:22~23)。家庭の霊的な指導力は夫にあります。神様は、まず男を造り、その後に男のあばら骨をとって女を造られました。明らかに霊的な秩序があるのです。夫が立派な人でもそうでなくても、尊敬されていてもいなくても、それは人の問題です。私たちは、夫という家庭の霊的権威の原理に従わなければなりません。そうでなければ、その家庭はだめになってしまいます。

教師がどんなに気に入らなくても、追い出してはなりません。権威を無視することは、神様の権威に対する挑戦だからです。どんなに嫌でも親は親です。どんなに嫌でも夫は夫です。その秩序が守られてこそ、世と家庭、学校が守られるのです。では、不義に対してはどうでしょうか。殉教しなければなりません。反抗してはなりません。それでキリスト教に殉教があるのです。反抗する力よりも、責任を持って祈る祈りの力のほうが偉大です。大声を出す力よりも、ひざまずいて祈るときの力、神様がみわざを起こして変えてくださるという信仰を持つことのほうが、もっと強いのです。

また、神様は、教会にも権威の秩序を与えられました。「……あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい」(Ⅰテサ 5:12~13)。神様が霊的指導者たちを教会の権威者とされました。年上でも年下でも、道徳的な経験があってもなくても関係ありません。その人に権威が与えられたことが重要なのです。

 

盲従とは違う真の従順

では、権威の下にいる人々にとって何が重要なのでしょうか。一言で言うと「従順」です。ただ言われるがままに従うことではありません。相手が間違っていると分かっていても、あえて従うのです。その人が間違っていることが分かっていても、霊的な力や天の秩序に従うのです。愛によって憎しみに勝ち、赦すことによって憤りに勝ち、従順によってあらゆる不正に勝つのです。それは、あきらめでも妥協でもありません。従順の力です。神様は、私たちを救うために信仰という方法を与えてくださいました。信仰を通して私たちは救われます。では、救いを保ち、実を結ぶにはどうしたらいいでしょうか。従順の人生を通して救いが完成されます。ですから、救いは信仰によって始まり、従順によって完成するのです。神様に従うたましいに対抗できる人は一人もいません。

聖書は、怒りや批判、不従順、反抗という方法によって正義を行うようにと教えたことは一度もありません。多くの人が、他人を利用し、殺し、批判することによって正義がなされると考えます。しかし、イエス様は正義を成し遂げるために、黙々と十字架につけられ、死なれました。ご自分が死ぬことによって神様の義が成し遂げられると考えられました。これが、イエス様の方法です。

 

神様のために存在する権威

私が存在する理由は天の権威のためだと告白できるようになりましょう。「私は救われて、イエス・キリストから権威を委ねられた。私は世の権威の下にいるが、その権威のために存在するのではない。お金のため、学位のため、この世の技術発展のために存在するのでもない。それらは神様が与えてくださる権威によって仕えるための一つの対象にすぎない」と言えるところまで行かなければなりません。

妻は、霊的に未熟な夫や信仰のない夫でも、家庭の霊的指導者であることを認めて従いましょう。従順を通して、夫を霊的な権威者として敬いましょう。そうすれば、家庭に秩序が生じます。子どもたちは、親に逆らったり、怒りを抱いたりしないようにしましょう。父親が失敗したり誤ったりしても、愛をもって赦し、家庭の権威者として召されている父親のために断食し、祈りましょう。そうすれば、父親が変わります。これが聖書の原理です。あらゆる場合に柔和と謙遜と従順をもって悪に打ち勝ち、勝利されますように。

 

 

神様を否定することは、権威そのものを否定することです。

その権威が否定されれば、人の存在価値も否定されるのです。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2020年11月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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