聖書には本当に間違いがありませんか | |||||
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聖書には本当に間違いがありませんか
ペク・チュンヒョン 長老会神学大学 組織神学 教授
1866年、李氏朝鮮の平壌でジェネラル・シャーマン号事件が起こった時のことです。平壌の住民の攻撃によってシャーマン号が沈み、乗船していたロバート・ジャーメイン・トーマス(1840~1866)宣教師が川岸に出て聖書を配っていましたが、パク・チュングォンの手によって殉教しました。この時、パク・チュングォンは一冊の聖書を拾います。後に彼は、この聖書を読んでイエスを信じ、アンジュ教会の長老になりました。トーマス宣教師が配った聖書は、パク・ヨンシクの手に渡ります。彼は聖書を破って自分の部屋の壁紙に使いました。この家は後に、平壌初の教会「ノルダリゴル礼拝堂」になりました。パク・チュングォンの甥イ・ヨンテは、パク・ヨンシクの家の壁紙になっていた聖書を読んでイエスを信じ、後に聖書翻訳委員になりました。
聖書は、韓国の教会の歴史だけでなく、世界の歴史にも驚くべきことをしました。アウグスティヌス(354~430)は、若い頃、思想的にさまよい、道徳的に退廃した日々を送っていましたが、ある時「トレ、レゲ(Tolle lege)」という声を聞きます。これはラテン語で「取って読め」という意味です。彼はこれを聞いてローマ人への手紙13章11~14節を読み、自分が罪人であることを悟りました。そして、放蕩生活をやめ、バプテスマを受けて偉大な神学者になりました。マルティン・ルター(1483~1546)は、神の御前で正しい人になろうとあらゆる苦行を行いましたが、心に平安がありませんでした。しかし、「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ロマ 1:17)という箇所を読んで、「信仰によって義とされる」(信仰義認)という真理を悟り、宗教改革を起こして世界史に大きな変革をもたらしました。
聖書は神のことば
聖書がこのように驚くべきことを起こすことができる理由は何でしょうか。それは、聖書が神のことばだからです。神のことばは生きていて、力があります(ヘブ 4:12)。神のことばは空しく戻ることなく、望むことを成し遂げます(イザ 55:11)。また、聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益で、読む者を神の人として完全にし、すべての良いことを行う力を与えます(Ⅱテモ 3:16~17)。ここで「神の霊感」とは、「神が息を吹き入れる」(inspire)ことを意味します。人は呼吸してこそ声を出して話せますが、神が息を吹き入れてくださるからこそ、声が出て語られるのです。神は語られる方であり、この方のことばを記したものが聖書です。これを「聖書の霊感」(biblical inspiration)と言います。そして、聖霊は神の息(霊)であり、私たちが聖書を悟れるよう光を照らしてくださいます。これが「聖霊の照明」(illumination)です。神は、聖書を通して今日も私たちに語り、聖霊によって悟らせ、驚くべきことをなされます。
聖書に接する正しい態度
私たちのうちでダイナミックに働く聖書のことばを、特定の観点によって限定してしまうなら、聖書に対して歪んだ態度を持つようになります。たとえば、聖書のことばを尊重するあまり、一句一句の意味に限定して見るなら、聖書主義(biblicism)に陥ってしまいます。聖書に記されたみわざを見ながら神の本質を知っていくことはできますが、聖書を歴史資料に限定してしまうなら、歴史主義(historicism)や歴史実証主義(historical positivism)に陥ってしまいます。聖書を通して創造世界の驚くべき姿を見出すことはできますが、科学資料に限定してしまうなら、無神論的科学主義(scientism)に陥ってしまいます。
このような歪んだ態度で聖書に接するなら、聖書の中に間違いがあるように思えてきます。しかし、そのような間違いは、私たちの認識や理解体系の中で起こるものです。さらに根本的に見るなら、特定の時代の精神から影響を受けている誤った前提によって起こる間違いです。全能であられ、生きておられる神のことばは、いくつかの特定の観点や前提に限定されるものではありません。
聖書の究極的な権威はただ神様だけにあり、聖書のどんな翻訳であっても、その解釈の権威は神様にあります。聖書学、歴史学、科学のような学問は、すべてこの権威の下において聖書をさらに豊かに理解できるように助ける道具としなければなりません。神はご自分のことば(聖書)を通して私たちを召し、罪の赦しと救いを与え、神の子どもとしてくださいます。また、神の子どもとなった信仰の兄弟姉妹たちと結びつき、教会共同体として生きていくように導かれます。そのため、私たちは恐れる心と大きな期待を抱いて聖書を見なければならないのです。
神様は今日も私たちに聖書を通して
語られ、悟らせ、驚くべきことを起こされます。
本文は、『リビングライフ STORY 2021年1月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。