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密かな罪まで悔い改めましょう
by.CGNTV
hit 437 recomend 94 2021-01-19 14:22:56

密かな罪まで悔い改めましょう

 

 

ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師

 

[ マタイの福音書21章33~46節 ]

 

ある家の主人がぶどう園を造りました。そして、そこに垣根を巡らし、中に踏み場を掘り、そのぶどう園を守るためのやぐらも建てました。そして、農夫たちにそこを貸して、外国に旅に出ました。収穫の時が近づくと、主人は収穫を受け取るために、しもべたちを遣わしましたが、問題が生じました。農夫たちがそのしもべたちの一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにしたのです。主人がその知らせを聞いて、前よりも多くのしもべを送りましたが、彼らは同じような行動を繰り返しました。主人は最後に自分の跡取り息子を送ることにしました。ところが、農夫たちはその息子を見るなり「この子どもさえ殺せば、ぶどう園は自分たちのものになる」と言って、主人の一人息子を殺してしまいました。イエス様はこのたとえを語られた後、「では、主人が戻って来たとき、主人はどうするだろうか」と問いかけられました。

農夫たちを愛し、信頼したぶどう園の主人

ここで、ぶどう園の主人は神様を指します。ぶどう園はイスラエル、農夫は宗教指導者たちを意味します。ぶどう園の主人が遣わしたしもべは神様の預言者たちであり、ぶどう園の主人の相続者である息子はイエス・キリストを意味します。このたとえは、主人の良い意図に従わない悪い農夫たちに対する神様のさばきについて伝えています。

ぶどう園の主人から、私たちは大切なことを三つ教えられます。一つ目に、ぶどう園の主人は農夫たちを愛し、信頼していました。33節を見ると、主人はぶどう園を造り、そこに垣根も踏み場も、ぶどう園を守ることができるやぐらまで建ててあげました。人々が生活できるようにしてあげたのです。税金は納めさせましたが、農夫たちが生活できるように環境を整えてあげました。これは、神様が人間を愛し、信頼しておられることを表しています。主人は、遠い外国に行く際に、すべてを信じて委ねたのです。神様は、私たちを愛してエデンの園を造り、そこで十分に食べて生活できるよう整えられました。これが神様の愛です。

 

ぶどう園の主人の忍耐

二つ目に、主人の忍耐を見ることができます。外国にいた主人は、農夫たちの恩知らずな態度と裏切りについて聞きました。

「『ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした』」(マタ 21:35)。

何ということでしょうか。恩をあだで返したのです。すると主人はどのようにしましたか。

「『主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした』」(マタ 21:36)。

主人は、すぐにさばかず、忍耐して機会を与え、また人を送りました。しかし、彼らは同じようにしもべたちを打ちたたき、殺しました。主人はそこで終わらず、もう一度忍耐しました。最善を尽くしたのです。

「『その後、主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、息子を彼らのところに遣わした。すると農夫たちは、その息子を見て、「あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう」と話し合った』」(マタ 21:37~38)。

主人は最後に自分の一人しかいない息子を送りました。しかし、農夫たちはその跡取りを見るなり、「あの跡取りさえ殺せば、自分たちがすべて手にすることができる」と考え、殺してしまいます。私たちはここで、神様の忍耐を見ることができます。神様はどれほど忍耐されましたか。ご自分の子どもを十字架につけて殺すまで、私たちを待ち、忍耐されたのです。これが神様の愛です。神様は、私たちを信頼してくださいました。それだけでなく、私たちに対して長い間忍耐してくださいました。

 

さばくぶどう園の主人

三つ目に、悪い農夫たちに対する主人の怒りとさばきを見ることができます。

「『ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。』彼らはイエスに言った。『その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう』」(マタ 21:40~41)。

結局、主人が戻って来て、悪い農夫たちをみなさばき、滅ぼします。もし最後のさばきがなければ、正義も真理も無意味になります。来るべき日の正しく完全なさばきのゆえに、真理は真理となり、正義は正義となるのです。

終わりの日のさばきは、必ずあります。この世は、永遠に無意味な前進をしているのではありません。私たちが犯した罪は、忘れられることなく必ず明らかになります。聖書は「あなたがたが部屋の中で話したことばを、その日には屋根の上で大きな声で言うことになる」と言っています。心の中で密かに犯した罪もなくなりません。それは、ある日、すべての人が見ている前で明らかになり、さばかれるのです。もし神様が罪を適当に扱われたり赦されたりするなら、その方は神様ではありません。

神様は私たちの罪を赦すために、裏で涙を流さなければなりませんでした。罪の代価を払うためにご自分の子どもを殺さなければなりませんでした。神様は罪に対して妥協することができない方だからです。この事実を知るとき、私たちは大きな衝撃を受けます。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブ 9:27)。

私たちは罪を持って生まれました。人間は本来、罪と咎によって死んだので、罪を犯すしかありません。しかし、私たちは自分が犯した罪について、イエス・キリストの御名によって悔い改め、赦しを得なければなりません。もしそうしなければ、その罪は終わりの日、キリストのさばきの座ですべて明らかになります。しかしイエス様は、だれでも「わたしの名」によって赦しを求めれば、真っ白な雪のようにきれいに洗うと言ってくださいました。神様は、その罪を覚えないと言われました。

罪は、数千年経っても消え去ったりしません。それなのに、罪をさばきの座まで持って行きますか。それとも、死ぬ前に早く悔い改めますか。生きているうちに、その問題を解決しなければなりません。

 

罪に支配された農夫たち

次に、農夫たちについて考えてみましょう。農夫たちは、不従順で恩知らずな態度を取りました。主人がいるときは忠実でしたが、主人がいなくなると、態度が変わりました。その心の深いところには、良い主人に対する不信と反抗と不従順な態度があったのです。彼らは、特に理由もなく二度も主人のしもべたちを殺し、たたきました。おそらく、彼らは初めからそんなに悪くはなかったのではないでしょうか。いつから変わったのでしょうか。

「『その後、主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、息子を彼らのところに遣わした。すると農夫たちは、その息子を見て、「あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう」と話し合った。そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった』」(マタ 21:37~39)。

悪は悪を生みます。小さな罪は大きな罪に向かいます。初めから姦淫しようと思っている人はいません。しかし、気を許しているうちに姦淫まで行ってしまうのです。自分は願っていないのに、取り返しのつかない決定的なところまで行ってしまうのです。一度の過ちが二度の過ちになり、二度の過ちが決定的な過ちにつながってしまうのです。罪はどこで断たなければならないでしょうか。今、この場で断たなければなりません。

 

要の石となられたイエス様

イエス様は、たとえを話された後、結論を語られました。

「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ」』」(マタ 21:42)。

神様は、イスラエルの民を選び、彼らを通してメシアが生まれるようにされました。神様に仕える人の代表が祭司やパリサイ人、律法学者、民の長老たちでした。しかし、彼らはメシアに気づきませんでした。いいえ、気づいていながらも、排斥したのです。メシアが家を建てる者たちが捨てた石になってしまいました。生ける石であられるイエス様は、イスラエルの家の要の石として来られましたが、イスラエルの民はイエス様をメシアとして受け入れませんでした。ところが、その捨てられた石を異邦人たちが拾って要の石とし、救いの家を建てました。異邦人たちが救われることになったのです。

「『ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます』」(マタ 21:43)。

イスラエルの民は、選ばれた民、神様の家を建てることのできる民でしたが、その特権を奪われて、神の国の実はほかの民が結ぶことになりました。後の者が先になったのです。

私たちは、教会に長く通っていることを誇ってはいけません。教会の奉仕をたくさんしているからといって、御国に行けると思ってはいけません。イエス・キリストを受け入れたことを誇り、神様の子どもになったことを誇ってはいけません。44節に驚くべきみことばありますが、この節はとても解釈が難しい部分です。

「『また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします』」(マタ 21:44)。

イエス・キリストは、家を建てる者が捨てた石でしたが、要の石として救われる民の礎石になられました。すべてのことがこの方につながって、家と家がつながっているのです。ユダヤ人はその石を捨てましたが、異邦人を通してその方が救い主として要の石の役割をしたのです。このみことばは、私たちの生ける石であるイエス・キリストを拒む者は、自分の頭を石の上に落とし、粉々に砕けるようなものだという意味です。つまり、キリストを拒むなら、個人も国家もその石によって砕かれて、粉のように散らされるという意味です。イエス・キリストを受け入れたことに感謝しましょう。私たちには、イエス様を伝えるべき責任があります。

45~46節を見ると、祭司長とパリサイ人たちは、たとえが自分たちのことだと気づき、イエス様を捕らえようとしたとあります。彼らに、悔い改めない頑なな不従順の姿を見ます。私たちは、罪を指摘されても、不快に思わないようにしなければなりません。説教が自分のことのように感じたなら、牧師を通して聖霊が語られたのです。しつこく誘惑してくる罪がある人は、早く悔い改めて断ち切ってください。そして、愚かな農夫のように深刻な状態にならないようにしましょう。

 

祈り

父なる神様。今日、悪い農夫たちのたとえのみことばを聞きました。私たちのうちの怒りの霊、不従順の霊、批判の霊を取り除き、従順の霊、柔和な霊、貧しい霊をお与えください。そして、主に仕え、平和をつくる弟子にしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2021年1月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

 

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