聖書的な妻 講座: 共依存(コーディペンデンシー) | |||||
|
聖書的な妻 講座: 共依存(コーディペンデンシー)
トーチ・トリニティ神学大学 教授 イ・キボク
共依存とは、文字どおり「互いに従属し合い、依存し合う関係」という意味です。つまり、それがなくては生存することができない状態を意味します。おもにアルコール中毒に用いられますが、コーラ、タバコ、麻薬中毒、さらに人間関係における依存症まで含んでいます。
結婚関係では、配偶者中毒があります。配偶者がいなければ、自分の生活も存在の目的も自己のアイデンティティもない状態の人です。このような人は、配偶者が自分の人生のすべてなので、配偶者に密着して隷属し、支配されて生きます。配偶者に情緒的に密着しているので、配偶者から愛され、認められ、幸福感を得るために努力をし続けますが、結局悪循環となり、失敗してしまいます。自尊心が低く、自分のことを尊重できない人は、自分が愛されるべき存在だと堂々と主張することができません。自分が自分を尊重できなければ、人も自分を尊重してくれなくなります。その結果、配偶者から無視され、虐待されるようになるのです。そのように、情緒的に虐待されながらも、虐待する配偶者から離れることができない状態になります。配偶者に幸福と満足と意味を見いだそうとするため、配偶者に執着、あるいはのめり込みます。結果的に、満たされることのない深い虚しさと不満に陥り、自分を軽蔑するという逆機能的な人になってしまいます。
以下の内容について、自分自身を診断してみましょう。人に見せるためのものではないので、正直に自分の内面を点検してみましょう。
私たちの母親の世代は、夫だけを頼りに生きてきた時代でした。「良い夫にさえ出会えれば、幸せになれる」「女の幸せな人生は夫次第」というような言葉を聞いて育ちました。夫によって幸せか不幸せかが決まりました。女の幸せは、夫にかかっているというわけです。そのようになるしかなかったのは、地位や能力、経済力などがすべて夫を通してのみ与えられていたからです。ですから、時には無視されたり、虐待されたりしても、仕方なく我慢しながら生きなければなりませんでした。夫から暴力を振るわれても、自分を守るための力も方法も法的保護もありませんでした。妻は、夫に従属し、依存するしかないという社会的背景がありました。その結果、夫も真の意味で幸せになることができませんでした。妻が幸せであってこそ、夫も幸せで、母親が堂々としていてこそ、子どもたちも堂々と成長していけるからです。しかし、女性を劣った存在として見ていた時代には、妻が夫や子どもたちを幸せにできる力も方法もなかったのです。
今日でも、中東をはじめとする国々には、夫が妻をさげすみ、暴行を加える社会的背景が残っています。妻が受けるべき尊重や権利を奪われ、女として生まれたという理由だけで、生涯、暗く不幸な人生を生きています。夫がいなければ生計を維持する術が全くないので、仕方なく夫から虐待されても隷属して生きていくしかないのです。実に悲しく、残念なことです。一刻も早く女性の人権が尊ばれる社会になるよう祈らざるをえません。
韓国にも、以前は男尊女卑の思想が強く、女性(妻)はどこに行っても正しい待遇を受けられない時代がありました。女性は十分な教育を受けられず、手に余る家事や労働に追われていました。そのような地に、外国の宣教師たちが自分たちの安楽な生活を捨てて、遠い道をやって来てくれました。彼らの命がけの福音伝道により、女性にも新しい人生が開かれました。イエス・キリストの福音により、女性にも教育の機会が与えられ、女性も礼拝をささげることができ、次第に女性の権利が尊重されるようになっていきました。宣教師たちに感謝し、神様に感謝と栄光をささげなければなりません。しかし、そのような回復を私たちだけが味わって終ってはなりません。私たちは、福音に借りのある者として、運命なのだと思って、仕方なく夫に縛られて生きている女性たちのために出て行かなければなりません。彼女たちのために切実にとりなして祈り、彼女たちも自分の尊さを知り、心ゆくまでイエス様に礼拝をささげることができる日が来るよう、宣教に力を注がなければなりません。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラ 3:28)というみことばを黙想してみましょう。その時代の文化的状況を振り返ってみれば、奴隷も自由人も、男子も女子も、キリスト・イエスにあってみな一つだという宣言は、まさに革命的なみことばでした。そうです。イエス・キリストの福音が入ったところはすべて、異邦人も奴隷も女性たちも人生が新しくされました。イエスにあって男女差別がなくなりました。女性も神の子として堂々とした人生に回復されたのです。
それでは、イエス様を信じ、救われたあなたの家庭はどうでしょうか。あなたの夫婦関係について一度点検してみましょう。今でも夫に隷属依存が残ってはいませんか。もちろん、夫が昔の慣習に染まっていて、妻を尊く思うことができない場合もあります。そうであったとしても、自分が先に妻として変わってください。イエス様にあって幸せを見つけてください。夫が自分によくしてくれても、そうでなくても関係なく、主が与えてくださる力によって、夫を積極的に立ててください。自分の人生がまず新しくされ、その上で、福音によって夫の人生も新しくされるよう、積極的に助ける福音的な妻になってくださることを願います。
隷属依存から解放されるための、霊的な秘訣は何でしょうか。夫から霊的、精神的、情緒的に独立し、かえって夫を立てる役割を果たすためには、どのようにしたらよいでしょうか。新約聖書のペテロの手紙第一にある「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです」(Ⅰペテ 3:5)というみことばに、その秘訣を見いだすことができます。それは、夫に望みを置くのではなく、「神に望みを置く」ことです。夫が私の助けなのではなく、神様が私の助けなのです。
夫が変わることだけを待ち望まないでください。夫の行動によって振り回されないようにしましょう。夫に支配されたり無視されたりするとき、ただ耐えていないで、神の力を受けてください。神様が与えてくださる霊的な知恵と力を、日々受け取ってください。妻は、自分自身が変わり、発展し、成長しなければなりません。力のある女性になってください。その力により、夫に良い影響力を与えましょう。自分を愛してくださっている神様だけに焦点を合わせましょう。きょうも私を女性として美しく造ってくださった創造主なる神様を喜びましょう。ただその方だけが私たちの望みであり、喜びであり、避け所なのです。ハレルヤ!
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある」(詩 62:5~7)。
夫への隷属依存から抜け出すためには、どうしたらよいでしょうか。まず、イエス様が私を愛してくださっているということを忘れないようにしましょう。主が力を与えてくださることを信じ、受け取ってください。ただ神様に望みを置きましょう。夫に振り回されず、堂々としてください。そして、小さな変化から実践していきましょう。
以下の内容を参考にして、実践する課題を選んでみてください。さあ、始めましょう。試してみて、成功すれば自分をほめてあげ、神様に感謝しましょう。うまくいかなくても、もう一度トライしましょう。もちろん、祈りながら実践することを忘れないでください。
・ これからは、夫が自分に対してどのように行動するか、顔色をうかがわない。
・ 夫がいらいらしたり、腹を立てたりしても、私は心の平安を保つ。
・ 夫に私自身が願うことを丁重かつ恐れることなく表現する。
・ 夫が私によくしてくれなくても、過敏反応を示さない。
・ 夫の意見や感情も大切にするが、私の意見や感情も大切にする。
・ 自分が尊重され、ほめられ、大切にされることに対して感謝して受け入れる。
・ 日常生活の中で感謝なことと満足すべきことを探し、それを表現する。
・ 自分は価値があり、愛されている存在だということを信じ、宣言する。
・ 人の前で言った夫の言葉に当惑するようなことがあっても、落ち着いて夫のそばにいる。
・ 夫に対する不満や心配を主にゆだねて、考えないようにする。
・ 夫が変わらなくても、幸せな毎日を過ごす。
・ 夫を祝福し、とりなして祈り、主が働かれる時まで、まず私が新しい人として生きていく。
イ・キボク
トーチ・トリニティ神学大学院、キリスト教カウンセリング学教授。
オンヌリ教会協力牧師、ツラノバイブルカレッジ家庭ミニストリーディレクター。ラブソナタ講師。
本文は、『リビングライフ STORY 2017年4月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。