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コロナ時代の信仰:礼拝
by.CGNTV
hit 537 recomend 116 2021-02-02 04:44:46

コロナ時代の信仰:礼拝

 

 

キム・スンホ ヨンナム神学大学 キリスト教倫理学科 教授

 

 

2020年2月末からコロナ時代が始まりました。それと同時に、礼拝堂での礼拝が、突然インターネット礼拝や家庭礼拝に変わりました。「ウイルスの感染が深刻でも、礼拝堂で礼拝するべきではないか」「礼拝堂に行って感染者が発生したら、教会全体が批判されるのではないか」というような意見の衝突を皆さんも聞いたことがあるでしょう。今日は、礼拝堂という空間が信徒にとってどんな意味があるかについて考えたいと思います。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか」(ヘブ 10:25)。

1970~80年代の礼拝堂は、多くの人が集まる場所でした。子どもたちは放課後、礼拝堂で遊び、女性たちは平日も礼拝堂で聖書を学び、伝道したり祈ったりしました。徹夜祈祷のために教会で食事もし、早天祈祷もしました。礼拝堂は、地域の集会所のような役割を果たしていました。礼拝堂に通っていた人には特別な思い出があります。長い間、礼拝堂で信仰生活を送ってきた信徒にとって、礼拝堂の歴史がその人の信仰の歴史なのです。

教会は、成長すると、礼拝堂を建てることになります。本来の礼拝堂の概念は、礼拝をささげる場所です。神殿は聖なる場所です。礼拝堂が小さかった頃は礼拝堂の概念が強かったのですが、教会が大きくなると、新たに建築した大きな礼拝堂に強力に聖霊が働かれると思うようになります。神殿の概念が強くなるのです。神殿と礼拝堂の概念について考えてみる必要があります。

まず神殿の概念を考えてみましょう。旧約聖書を見ると、ソロモンが神の前に神殿をささげた時、神は「わたしは、あなたがわたしの名をとこしえに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目と心は、いつもそこにある」(Ⅰ列 9:3)と言われました。旧約の神殿の概念は、神が特別に臨在される聖別された場所だったのです。

しかし今は違います。コロナ禍で家庭礼拝やインターネット礼拝をささげていて「集中できない」「礼拝のようではない」と思う理由は、今まで私たちが礼拝堂で礼拝をささげて恵みを受けてきたからです。問題は、私たちが礼拝堂を神秘的で聖別された場所だと過度に思い込むことです。列王記第一では、神殿よりも大切なのは、神の命令とおきてを守ることであると言っています(Ⅰ列 9:6~8)。神殿に行くことよりも大切なのは、みことばを守ることです。神の前で正しい信仰を持つことです。どのように生きていくか、正しい信仰を持って生きているかということこそ、大切なのです。

もう一つは、イエスが昇天された後、聖霊が私たちに臨まれ、聖霊が住まわれる神殿とされたことです。イエスだけが神殿なのではなく、イエス・キリストを救い主と受け入れた私たちも神殿なのです。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません」(Ⅰコリ 6:19)。以前は特定の場所が大切で、その場所に神が臨在されました。今はイエスを信じる私たちが行く場所が神殿です。私たちには多くの罪があります。そのため、私たちが神殿だという概念を受け入れるのが難しいかもしれません。しかし、いくら多くの罪があっても、イエス・キリストの御名で行けばいいのです。私たちが行く場所が神殿なのです。本当に驚くべき福音です。イエスを信じる人が神殿で、礼拝堂は礼拝をささげる場所です。新約聖書に出てくる「教会」(エクレシア)は、信徒の集まりという意味です。

このように言うと、「それでは、礼拝堂は重要ではないのではないか」と考えるかもしれませんが、そうではありません。使徒の働き2章を見ると、聖霊に満たされた人々が家に集まってみことばを分かち合い、パンとぶどう酒を分けて聖餐式を行い、交わっていました。当初は家の教会でしたが、信徒が増え、公の礼拝堂を建てました。昔から信仰生活をしてきた人にとって、礼拝堂は、自分たちの信仰が生まれ、互いの信仰を励まし、みことばが生きている重要な場所なのです。「教会はキリストのからだ」だと聖書にあります。キリストのからだとは、イエスを信じる私たちのことです。かしらはキリストです。これはキリストが私たちを統治されるという概念です。

今後、インターネット礼拝はますます盛んになっていくことでしょう。それでも集まる礼拝を疎かにしてはいけません。ある人はインターネットでの礼拝を好み、ある人は礼拝堂での礼拝を好みます。コロナが収束しても教会に通う人は減ると思います。しかし、コロナが新たな転換点になるに違いありません。インターネット礼拝が盛んになっていくと、若者の信仰の問題が明らかになります。それについて考える良い機会になることでしょう。

 

本文は、『リビングライフ STORY 2021年2月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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