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天の御国の披露宴に連なりなさい
by.CGNTV
hit 629 recomend 106 2021-02-16 05:02:02

天の御国の披露宴に連なりなさい

 

 

ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師

 

[ マタイの福音書22章1~14節 ]

 

イエス様は、天の御国について、結婚披露宴のたとえによって話されました。

「イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。『天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった』」(マタ 22:1~3)。

披露宴を催した王は神様ご自身を意味し、結婚式の花婿である王の息子はイエス様を意味しています。当時は、披露宴に招待するとき、まず招待する人々に、いつ結婚式があるかを口頭で知らせました。そして、結婚式が開かれる当日、主人はしもべを遣わして招待した人々を連れて来させるという風習がありました。本文に出てくる王も、そのようにしたのです。

天の御国は、喜びと祝福の祝宴のようなものです。この披露宴に招待された人々は、選ばれたイスラエルの民でした。神様は彼らを選び、御国の民としようとされました。彼らを通してメシアを誕生させられたのです。ここで「招待」とは、天の御国への招きを意味します。また、招待した人を連れに行ったしもべたちは、旧約に現れた預言者たちと、特に最後の預言者であったバプテスマのヨハネと考えることができます。

「『それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。「招待した客にこう言いなさい。『私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください』と」』」(マタ 22:4)。

王は、披露宴を適当に準備したのではなく、完璧に準備しました。そこに人さえ来ればいいのです。ところが、どうしたことか、彼らは断り続けました。

 

招待を断った人々

彼らが招待を断った理由は何でしょうか。

「『ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった』」(22:5~6)。

このみことばは、天の御国に招待された人々の霊的状態を表しています。第一に、彼らは招待を尊いことだと思いませんでした。彼らは神様のしもべたちの預言を無視し、耳をふさいで聞こうとしませんでした。目に見えない霊的な祝福よりも、目に見える物質的な祝福に心ひかれたのです。

第二に、彼らは天の御国よりも自分たちの生活を重要視しました。そのうち最初の人が断った理由は、自分の畑に行って農作業をするためでした。農作業は彼らの生業なので、確かに生きていく上で決してなおざりにできないことです。しかし、この人たちは、自分の生業よりも重要な、霊的なものがあることに気づきませんでした。目に見えるものが人生のすべてだと考えていたのです。

二番目の人は、商売に出て行きました。今日でも、日曜日でも忙しく働いている人がたくさんいます。教会に行くべきだと分かっていても、目に見える商売のほうが重要なので、それを優先させるのです。本文に出てくる人たちも、最も合理的な理由で招待を断りました。しかし、もっと重要な永遠の世界があることを知らなければなりません。

三番目の残りの者たちは、招待しに来たしもべたちを侮辱し、殺しました。普通の披露宴なら、招待しに来たしもべたちを殺しまではしないでしょう。しかし、これは天の御国をたとえた披露宴なので、霊的に起こった出来事について説明しているのです。

 

神様のさばきと異邦人の救い

この披露宴は、王と花婿のためのものではなく、招待された人のためのものでした。この披露宴のために、王はどんな犠牲を払われましたか。ご自分の子を十字架につけて死なせる代価を払われました。死の力と罪とサタンと戦って勝利し、神の国を建てられました。それが十字架の死です。しかし、人々はこの霊的な事実を悟らず、断っただけでなく、イエス様を殺し、侮辱しました。それを見た王は、二つの態度を取ります。

「『王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。それから王はしもべたちに言った。「披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった」』」(マタ 22:7~8)。

王は怒って人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払いました。実際に、メシアを拒み、十字架につけたイスラエルの民は、AD70年にローマの軍隊によって、石の上に一つも石が残らないほど悲惨な運命を迎えました。

神様の恵みを拒むなら、さばきが臨みます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使 16:31)という天の御国への招待に、すぐに応えてください。この招待は、私たちの永遠を決定するものなのです。

王が行ったもう一つのことは、異邦人を救うことでした。王は考えを変え、資格のない人々を招待したのです。

「『「だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。」しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった』」(マタ 22:9~10)。

大通りには様々な人がいます。平凡な人々もいれば、取るに足りない人々もいます。しもべたちはそこへ行って、出会った人をみな披露宴に連れて来ました。ここで私たちは、神様が語られた本当の救いについて、三つの重要な真理を見出すことができます。

 

すべての人が招待された天の御国の披露宴

第一は、選ばれたイスラエルの民にだけ与えられると考えていた救いが、見捨てられたと思われていた異邦人にも与えられたことです。救いは、すべての人に与えられた神様の招待です。健康な人にも病弱な人にも、学歴の高い者にも低い者にも救いは与えられます。救いを独占しようとしていたパリサイ人や律法学者、民の長老たちは救われず、かえって、のろわれた人生だと思っていたツァラアトの患者や遊女、取税人、犬のように扱われていた異邦人に救いが宣言されました。イエス・キリストを見上げるすべての人々に救いが宣言されたのです。

ところが、サタンは私たちに近づき、「おまえの昔の姿を見てみろ。おまえは救われていない」と言って、劣等感や罪悪感を植え付けます。また「おまえみたいな者は、死んだほうがいい」と言って、神様のかたちを破壊します。しかし神様は「あなたの過去がどうであっても、あなたを救う。あなたを愛し、すべての罪を赦そう」と言ってくださいます。今日のみことばを見ると、大通りにいた人はだれでもこのような救いの招待を受けました。それで神様の天の披露宴には、貧しい者、遊女、殺人者、詐欺師、病人、悪霊につかれた者、賢い者、金持ちなど、あらゆる人がいることができるのです。

 

罪人を愛される神様

第二は、悪い者にも良い者にも、同じように救いが与えられるということです。熱心に祈り、聖書をよく学び、いろいろな集会によく出て、たくさん献金し、奉仕をよくする人だけが救われるのではないのです。

イエス様の横で十字架につけられた一人の強盗が救われましたが、彼は善を行ったから救われたのでしょうか。彼は、罪のために死ななければなりませんでしたが、最後の瞬間にイエス・キリストを見出し、受け入れました。彼は「私を思い出してください」と言っただけです。彼には正しく生きる時間が残されていませんでした。ただ、イエス様が救い主であることを信じただけですが、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」というイエス様のことばを聞くことができました。イエス様を神様の御子と信じ、拠り頼んだ瞬間、すべての罪が消え、救われたのです。

姦淫の現場で捕まった女に、イエス様は「わたしもあなたにさばきを下さない」と言われました(ヨハ 8:10~11)。これは「あなたの過去を問わない」という意味です。彼女は悔い改めた後に救われたのではなく、姦淫の現場で捕まってイエス様に出会い、イエス様を受け入れた瞬間、すべての罪が赦されました。その後イエス様は「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われました。これは、かつてのように生きないで、新しい被造物として、神様の子どもとして生きなさいという意味です。

神様は、私が犯した罪を赦すだけでなく、罪人の私を赦してくださいます。罪人の私を赦すので、私が犯したすべての罪が赦されるのです。私たちの罪がどのくらいのレベルかということは、重要な問題ではありません。神様が関心を持っておられるのは、罪人である私たち自身です。罪と咎によって死んでいた、すでに地獄の子どもであった私たちを、神様がまず愛し、救ってくださったのです。

 

イエス様の血潮ときよさ

第三は、救いはまだ完成されてはいないということです。当時、招待された人々が結婚式場に入るときは、主人が礼服を準備して着せることになっていました。

「『王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。「友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。」しかし、彼は黙っていた。そこで、王は召使いたちに言った。「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる」』」(マタ 22:11~13)。

この礼服は、イエス・キリストの義の衣です。罪人は神様に会うことができません。イエス様の十字架の血潮によってきよくされた者が、神様に会うことができるのです。この礼服を着ていない者は、天の披露宴に入ることができません。主人が準備した衣を見て「こんなものは着ない。自分の服を着る」と意地を張る不従順な人は、すぐに追い出されます。

「『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです』」(マタ 11:14)。

多くの人が教会に来ますが、みなが救われるわけではありません。私たちの目には見えませんが、神様の目には血潮に濡れていない人が見えます。礼服を着るとは、イエス様が私のために十字架で血を流して死なれたことを信じることです。神様は、イエス様の血潮によって罪を洗われた人を用いられます。その人を通して聖霊の力を現し、病が癒やされ、人生に革命が起こるのです。教会に来る人は多くても主の血潮を経験する人は少ないというのではいけません。イエス様の血とからだのある所に、神様のいのちがあります。いのちのある所に、神様の力が現れるのです。

 

 

祈り

神様。あらゆる人を天の御国の披露宴に招いてくださり、感謝します。人生の中で本当に重要なものを深く悟らせてくださり、主が招待されるときに、私たちが言い訳しないようにしてください。イエス様が私のために血潮を流されたことを信じ、その血潮によってきよめられますように。私たちのうちの罪がなくなり、私たちを通して神様の驚くべき御力が現れるよう祝福してください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2021年2月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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