神のものは神に返しなさい | |||||
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神のものは神に返しなさい
ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師
[ マタイの福音書22章15~22節 ]
パリサイ人たちは、納税についての質問を通して、イエス様を罠にかけようとしました。
「そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した」(マタ 22:15)。
一度、試みにあって教会や神様に対して批判的な目を持つようになった人は、その状態からなかなか抜け出せません。良いことでも悪く考え、正しいことでも悪く解釈します。後に真実が明らかになったとしても、自分の考えを改めようとはしません。むしろ、自分は騙されているという深い不安感に捕らわれています。
一般的な偏見の中で最も深刻なものは、信仰に関する偏見です。過去に受けた心の傷が原因で生じた偏見だとしても、ひとたび神様に対する否定的で反抗的な見方を持つようになると、その人は無神論者になってしまいます。また、さらに進んで、創造主と被造物を同一視する汎神論者になる人もいます。創造主なる神様を認めることができなければ、自分の存在の根拠がなくなってしまい、人格が破壊されてしまいます。しかし、それでも、神様を認めようとしないのです。
ところで、それとは反対の現象があります。常識を超越した極端な形の信仰を持つようになることです。今日のみことばに出てくるパリサイ人たちは、そのようなタイプの人々でした。彼らは、汎神論者でも無神論者でもありませんでした。「パリサイ人」とは、分離主義者という意味です。彼らは、ほかの人々と区別され、神様だけに敬虔に仕える人々、神様に仕える専門家であるべき人々でした。しかし、最も信仰的で、神様中心の生活をしていると主張していた彼らが、驚いたことに最も不信仰的で、汎神論的な態度を取っていました。もちろん彼らは、口では非常に信仰的なことを言っていましたが、内面には深い不信仰があったのです。
悪しき者の内面
「彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。『先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです』」(マタ 22:16)。
ここに悪しき者に見られる二つの面を見ることができます。一つは、目的のためなら、どんなことでもするということです。もともとパリサイ人たちは、律法に忠実で、神様のみこころに従って生きることを信仰の原則としていました。それで、ローマの勢力に対しては、いつも反抗的でした。また世俗的で、異邦的で、政治的な勢力に対しては、同意しませんでした。彼らはカエサルに税金を納めることも不快に思っていました。できれば納めなくてもすむように努力していたのです。
ところが、彼らはイエス・キリストを攻撃するために、自分たちがいのちのように大切にしている信仰の信条までも捨て、ヘロデ党の者たちと手を組みました。驚くべきことです。ヘロデ党とは、ヘロデを支持する親ローマ派の人々です。彼らは信仰的でも宗教的でもなく、政治的で世俗的な一つの勢力集団でした。パリサイ人たちはそのようなヘロデ党と手を組み、イエス様を攻撃する勢力となったのです。
パリサイ人たちは、カエサルに税金を納めることを喜ばないグループです。反対に、ヘロデ党はカエサルに税金を納めることを好むグループです。信仰的にも政治的にも、互いに近づくことができない人々です。しかし、イエス様を攻撃するためには、ためらうことなく手を組んだのです。
もう一つは、悪しき人々は、平気で心にもない嘘をつきます。もともとサタンは殺人者であり、嘘つきです。悪霊が戻って来ると、人はきよさを失います。身も心も汚れ、自分勝手に生きます。ある人は、簡単に嘘をつきます。誇張して話し、よく嘘をつく人は、すでにサタンの影響圏内に入っているということを知らなければなりません。サタンは嘘つきであり、殺人者です。イエス様に対するパリサイ人たちとヘロデ党の者たちのことばを聞いてみましょう。
「私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです」
これが、嘘だと言っているのではありません。これは真実です。彼らは自分でも知らないうちに驚くべき真理を宣言したのです。しかし、パリサイ人とヘロデ党の者たちは、敬意を示し、賛辞を述べてから、罠にかけるための質問をしました。
「ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」(マタ 22:17)。
当時の税金には、土地税、財産税、人頭税がありましたが、ここで言う税金は人頭税で、14歳から65歳のすべての人に課せられていました。この質問は、イエス様を窮地に追いやるためのものでした。もし律法にかなっていないと言えば、ローマ政府に敵対する立場に立つことになり、カエサルに税金を納めることを好むヘロデ党の者たちの反感を買うことになります。反対に、律法にかなっていると答えれば、ユダヤ人から信仰的な排斥を受けることになります。ユダヤ人にとって王は神だけでした。彼らは、政治的に試練や圧制を受けていたので、ローマの権力と王を非常に嫌っていました。できることなら、カエサルへの税金を納めたくないと思っていたほどです。
イエス様はどのように反応されたでしょうか。「イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。『なぜわたしを試すのですか、偽善者たち』」(マタ 22:18)。イエス様は、二つの顔、二つの心、二重の基準を持っている彼らの姿を見抜き、「偽善者たち」と言われました。実際、パリサイ人たちにとっての最大の敵は、ヘロデ党の者たちでした。それなのに、彼らは野合して一緒にイエス様を試みています。イエス様は彼らの心を見通して、そのうちにある悪を見られたのです。
悪の定義にはいろいろありますが、今日のみことばに見られる悪は「偽善」です。偽善とは、外側と内側が違うことです。言葉と考えが違い、行動と考えが違います。イエス様は、彼らの悪を見抜いて「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち」と言われました。これは、イエス様が40日間、断食された後、悪魔と戦われたときに言われた、「下がれ、サタン」と同じことばです。イエス様は、神様の権威と力によって、叱られたのです。
カエサルのものと神のもの
イエス様は次に、以下のみことばのように反応されました。
「『税として納めるお金を見せなさい。』そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。イエスは彼らに言われた。『これはだれの肖像と銘ですか。』彼らは『カエサルのです』と言った。そのときイエスは言われた。『それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい』」(マタ 22:19~21)。
イエス様は彼らにお金を持って来させ、お金に刻まれている肖像はだれのものかと聞かれました。すると彼らは、カエサルのものだと答えます。その時代の貨幣には、ローマ皇帝の肖像が刻まれていたものが通用されていました。そして、そこに「万人の主、神聖なアウグストの子ティベリウス・カエサル」という文字が刻まれていました。
彼らが「カエサルのもの」と答えると、イエス様は断固として、実に驚くべきことを言われました。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というのです。
このみことばの中に、三つの重要な意味を見出すことができます。
第一に、神様のものと世のものは区別されなければなりません。多くの人は、この世で生きながら、神様のものと人のものを混ぜようとします。私たちが神様のみこころの通りに生きないとき、神様を人間の次元に下ろそうとするのです。ある場合に、人々はイエス・キリストを自分の常識や理性、経験の次元に合わせようとします。しかし、罪と聖は混ぜることができません。この世の権力や政治が教会の中に入って来ることはできず、同時に教会のきよさがこの世の政治や権力に利用されることもできません。それは、水と油のように違うのです。
第二に、「カエサルのものはカエサルのもの」という事実です。私たちがこの世で生きながら、一方ではこの世や国に対して忠実でありなさいという意味です。分かりやすく言えば、税金をちゃんと納めなさいということです。イエス様を信じている人は、税金を納めないための合理的な抜け道を探すべきではありません。まず良い市民となって、秩序を守らなければなりません。ローマ人の手紙では「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」(13:1)と言っています。悪い主人でも従い、悪い王でもその権威に従うべきなのです。
第三に、救われた私たちは、神の子どもであり、天の御国の民です。私たちは、世の人ではありません。自分自身のものでもありません。神様のものです。私たちは、永遠に属した人であり、永遠のいのちを持った者たちです。私たちの子どもは、私たちのものではありません。神様のものです。私たちのお金も、時間も神様のものです。私たちの人生は、すべて神様のものです。私たちが生きているのではなく、私のうちにおられるキリストが生きておられるのです。これが、「神のものは神に返しなさい」ということばの意味です。
たとえば水に浮いている船を考えてみると、この世は海で、クリスチャンは船に乗っている人です。船は、海の上にいます。クリスチャンは、教会だけで過ごす人ではなく、罪に満ちた世の真ん中で生きる人です。しかし、決してこの世の流れが船の中に入って来ないようにするのです。海水が船の中に入って来ると、船は破損してしまいます。私たちは、悠々とこの世を航海する者たちなのです。時々、苦難の台風が吹くこともありますが、台風が吹けば船は早く進みます。
神様の奇跡は、神様のものを神様に献げるときに起こります。神の人は、神様がくださったものを食べて生きる人です。世俗的なものは神様に献げてはなりません。汗水流して誠実に働いて受け取ったものを通して、神様の奇跡が起こるのです。献身は、最も良いものを神様に献げることです。残った時間を献げるのではなく、忙しい中でも最も良い時間を献げることです。自分のために神様が存在するのではなく、神様のために自分が存在するのです。これが「神のものは神に」ということばの意味です。
私たちの人生に、このような祝福がありますように願います。私たちは、この世を離れて生きるべきではありません。この世の真ん中で、カエサルのものはカエサルに返し、神様のものは神様にお返しして生きるべきなのです。
祈り
神様。これまで私たちは、世のものと神様のものを区別できず、世に同化して生きてきました。世の人々の顔色をうかがいながら卑劣に生きてきました。主よ、私たちが神様の愛によって生きられるようにしてください。しかし、決してこの世を離れて生きず、罪に染まったこの世の真ん中で、神様の御力をまとって生きさせてください。聖霊で満たし、日々勝利の凱歌を歌わせてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
本文は、『リビングライフ STORY 2021年3月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。