ともに泣き、ともに笑う人生 | |||||
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ともに泣き、ともに笑う人生
キム・ジェウォン KBSアナウンサー
20代の終わり頃、私がアメリカ留学していたとき、一人暮らしの父が中風で倒れました。私は急いで帰国し、驚いている暇もなく父親の介護者になり、赤ん坊の頃、父親にしてもらったことをすることになりました。2ヶ月ほど経った頃でしょうか。病院の補助ベッドで横になりながら何となく見ていたテレビに、KBS新入社員の募集広告が出ました。幼い頃の夢を思い出して「アナウンサーにでもなってみようか」と何気なく言ったのですが、妻は何も答えませんでした。しかし、翌日、妻がKBS本社に寄って入社志願書をもらって来てくれたおかげで、なんと私はアナウンサーになることができたのです。
マイクの重さに気づいて
病院から放送局に通いながら受けた厳しい研修の後、会社の方針に基づいて1年間の地方勤務の発令を受けました。地方の放送局とソウルの病院を行き来していた私に与えられた最初の全国放送は、白血病で苦しむ韓国系アメリカ人の米軍空軍士官学校の学生のための骨髄提供キャンペーン特別生放送でした。地方で生放送を終えて病室に戻ると、病室の人々は称賛を惜しまず、私がKBSの花形アナウンサーになるだろうと私の将来を祝福してくれました。父も涙を流しながら励ましてくれました。称賛と興奮が冷める頃、事故で両足を失い義足をつけてリハビリ訓練を受けていたある中年男性から声をかけられました。「お疲れさま。きれいに映っていたぞ。話も上手いし。で、骨髄提供はしたのか」「はい? ああ骨髄提供ですか? い、いいえ」「そうか。まだ余裕がなかったようだな。じゃあ、献血はしたのか」「そこまでは考えていませんでした」「そうか。とても話が上手かったから、当然したものだと思っていたよ。まあそんなこともある。私が言ったことは気にしないでくれ」 多少浮かれていた私は、トンカチで頭を殴られたような気分でした。「苦しんでいる多くの白血病患者のために骨髄を提供してください」と叫んでいた私は、恥ずかしいことに空言を語っていました。行いのない信仰よりも恐ろしくて卑しい、行いのない説得。私の自信あふれる叫びは、虚空をさまよう山びこでした。病室から出て地方に向かう終電の中で、私は今後生涯握ることになるマイクの重さを考えました。次の日、すぐに造血幹細胞の提供を誓約しました。
毎日生放送の司会をしながら、私はこの時代の喜びと痛みに向き合っています。喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣くこと(ロマ 12:15)が私の使命であると自覚しています。自死者の遺族が受ける苦しみを知らせ、産業災害被害者の青年の両親の絶叫を聞き、発達障害の子を育てる親の労苦を励ますことが、私のおもな務めです。彼らの痛みを単に言葉で伝えるだけでなく、一緒に泣くということは、どういうことでしょうか。いくら悩んでも正解を見つけるのは簡単ではありません。放送を終えて薄い封筒を手渡すだけでは、むしろ恥ずかしさが増すだけです。喜んでいる人とともに喜ぶことも難しいことを知っています。6年前に大学入試を受けた息子が推薦や一般入試で10数回不合格を経験していたとき、親しい友人の息子は名門大学に合格しました。口ではお祝いしながらも、心ではともに喜ぶことができなかった自分を見ながら、どんなに恥ずかしかったか分かりません。むしろ自分のことだったら少しは楽だったと思いますが、息子が感じる挫折を思うと、なかなかともに喜ぶことができませんでした。「ともに」という単語には、単に横にいることだけでなく、多くの意味が込められています。イエス様は罪人である私とともにいるために十字架を負われました。激しい苦しみと恥に耐え、私の罪を贖ってくださいました。イエス様とともに泣いてこそ、イエス様の復活をともに喜べるようになります。私の犠牲が担保とならなければ、彼らの痛みの前でともに泣くことができず、私の欲を捨てなければ、私の喜びは私のものになりません。共感も感情移入も憐憫も、寄り添う愛がないなら空しいだけです。
主のみこころを思いつつ
4年前、大韓赤十字社から、まだ造血幹細胞の提供意志はあるかという電話を受けました。もちろん提供意志を告げ、遺伝子検査を受け、親切な説明を聞いて手術の日を待ちました。しかし、患者の状況が変わり、提供は次の機会に延びたという連絡が来ました。私にできることは短い祈りだけでした。私は、私を必要とするだれかを待ちながら、彼らとともに笑い、泣くために、今朝もカメラの前でマイクを握ります。
本文は、『リビングライフ STORY 2021年6月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。