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ダビデのキリストを賛美しましょう
by.CGNTV
hit 469 recomend 129 2021-07-06 13:37:59

ダビデのキリストを賛美しましょう

 

ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師

 

 

[ マタイの福音書22章41~46節 ]

 

「パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。『あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。』彼らはイエスに言った。『ダビデの子です』」(マタ 22:41~42)。

イエス様は、パリサイ人たちに「キリストについてどう思いますか」と、意味慎重な質問をされました。これは「あなたはキリストについてどのような意見を持っていますか」という意味です。それから、内容をもう少し狭めて「キリストはだれの子ですか」と質問されました。すると彼らは、ためらうことなく「ダビデの子です」と答えました。これは一般的なユダヤ人のメシア思想でした。イエス様は、彼らがそのように答えることを予測しておられました。

 

イエス様の聖書観

「イエスは彼らに言われた。『それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、「主は、私の主に言われた。『あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで』」と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう』」(マタ 22:43~45)。

イエス様の二つ目の質問のポイントは、次の点です。「あなたたちは、キリストがダビデの子だと迷うことなく言いましたが、それならば、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼んだのですか。どうしてダビデの子がダビデの主になるのですか」

この質問の中に、イエス様の旧約に対する三つの聖書観を見出すことができます。一つ目は、イエス様は詩篇110篇のみことばを引用されましたが、その詩篇をダビデの記述だと認めておられる点です。それがなぜ重要なのかというと、最近の多くの学者がダビデ詩篇はダビデの記述ではなく、後代の人々の編集だと主張しているからです。

二つ目は、ダビデは、御霊によって詩篇を書いたという点です。今日、多くの人々が聖書を神様のことばと思わず、ユダヤ人の歴史的な記録として考える傾向があります。また、聖書を御霊によって記した書として見ず、有能な人の記録として見る傾向があります。しかし、ここでイエス様は、ダビデが御霊によって告白したと、はっきりと言われました。

では、聖書が御霊によって書かれたとは、どういう意味でしょうか。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモ 3:16~17)と書いてあります。そうです。聖書は、知識や経験、思想によって書かれた書ではなく、神様の霊感によって書かれた書です。人間の知識や経験、能力を借りましたが、実際に聖書を記した方は、神様ご自身だという意味です。聖書は、長い歳月をかけて書かれ、著者たちが会って話し合ったことは一度もありません。著者の職業も違います。漁師もいれば農夫もいて、牧者も王も軍人もいます。このように様々な階層の人々が歴史の様々な状況の中で書いたにもかかわらず、聖書は主題が同じで、統一性があるのです。

聖書は人間が記した書ですが、同時に一点一画も間違いのない神様のことばです。聖書は、だれかの証しを必要としません。聖書そのものが証しなのです。聖書は、私たちを救うための神様の知恵です。人間の計画や考えでは想像もできない方法によって与えられた救いのプレゼントなのです。

三つ目は、イエス様が引用された詩篇110篇1節は、キリストに関するみことばだという点です。多くの人々が旧約のみことばをキリストと結びつけて考えることを拒みます。それで、旧約を読んでも感動がなく、神様の偉大な力を見出すことができません。ある人々は、聖書を睡眠薬の代わりに読んだりもします。創世記を読んでいると、「生んだ、死んだ、生んだ、死んだ」という文章が続く箇所が出てきます。それに飽きて新約聖書のマタイの福音書を読み始めると、そこでもまた「生み、生み、生み」が続きます。そこで普通、多くの人は、聖書を閉じてしまいます。ところが、ここに実に神秘的な意味があります。旧約の「生んだ、死んだ」は、罪を犯した人間は死ななければならないという意味です。しかし、新約の「生み、生み、生み」は、キリストによって生命、すなわち永遠のいのちを得るということなのです。

マタイの福音書1章23節を見ると、マタイがイエス様のご生誕についてイザヤ書7章14節のみことばを引用し「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と言っています。ここまで記されているのに、信仰のない多くの学者は、処女が子を産むことを受け入れず、別の解釈を探します。イエス様の復活に関しても、「どうやって死んだ者がよみがえるというのか。そうではなく、復活とは絶望した人が望みを抱くこと、正義が勝利することを意味しているのだ」と解釈します。また、多くの人々は、天国と地獄について語ると、それは人間の宗教的な想像の世界の話だと言います。

ここに信仰の分かれ道があります。信仰は、人間の理性や常識、経験の世界の中にとどまるものでしょうか。そうではありません。もしイエス様が復活されなかったとしたら、私たちの信仰は空しいものです(Ⅰコリ 15:14)。また、2千年のキリスト教史は史上最大の作り話ということになります。しかし、イエス様は本当に復活されました。終わりの日に、私たちもみな復活することになるのです。

 

真のキリストの意味

では、再びイエス様の質問に戻りましょう。なぜイエス様は、パリサイ人たちにこのような質問をされたのでしょうか。イエス様は、質問に答えたパリサイ人たちに向かって、「キリストがダビデの子であるなら、どうしてダビデがそのキリストを主と呼んだのか」と聞かれました。このことばには、真のキリストはダビデの子以上だという意味があります。

ローマ人への手紙にこのようなみことばがあります。「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです」(ロマ 1:3~4)。イエス様が、肉によればアブラハムとダビデの子孫から生まれたということは、すべてのユダヤ人が同意します。サムエル記第二7章12節と詩篇132篇7節以下を見ると、ダビデの子孫から統治者が生まれ、約束を成し遂げることを語っています。エレミヤ書23章5~6節でも「見よ、その時代が来る。─主のことば─そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『主は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である」と言ってます。

しかし問題は、真のキリストはダビデの子孫から生まれる肉のキリストだけではないということです。先のローマ人への手紙1章のみことばのように、その方こそ、聖なる霊によれば死者の中からの復活により、力ある神の子として認められた方です。これを証明するために、イエス様は、詩篇110篇1節を引用して、キリストがダビデの子であるなら、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼んだのかと言われました。つまり、ダビデが主と呼んだ方がダビデの子になったというのは、矛盾ではないかという意味です。

「するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった」(マタ 22:46)。

パリサイ人たちは、イエス様のこの驚くべきことばを聞いて、沈黙せざるを得ませんでした。その沈黙は、単なる否定の沈黙ではなく、イエス様のことばが正しいという証言のようなものでした。そして、真のキリストは肉のダビデの子孫以上だという事実を認める沈黙でした。ユダヤ人たちは、キリストが単にダビデの子孫から生まれるということだけを考えていたのです。それは、キリストに対する一部の真理にすぎませんでした。パリサイ人たちの質問を見てください。世俗的で肉的で不信仰な質問です。イエス様の答えはどうでしょうか。すべて神の国に関すること、霊的なこと、御力に関することでした。

神の国の原理は、神への愛です。この世の原理は何でしょうか。自分への愛です。それでイエス様は「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です」(マタ 22:37~39)と言われたのです。イエス様は、パリサイ人や律法学者たちとの論争を通して、神の国は世の国と混ざり合わない、全く違うものであることを示されました。真のキリストがこの地に来られれば、真の救いと平和と愛と神の国が成し遂げられるでしょう。

残念なことに、生涯、神様のことばに専念していた人々に、その真理が隠されていました。いくら聖書をたくさん読み、神学を学んでも、人類の救いとイエス・キリストの十字架、復活、再臨を悟ることができないなら、信じていない人よりももっと悪い人になってしまいます。そのような人は、薄っぺらな聖書の知識をもって神様に敵対するようになるでしょう。

 

イエス・キリストを宣言すること

キリストは、ダビデの子であるだけでなく、ダビデの主です。イエス・キリストが私たちの主であるということを信じれば、神の国が私たちに臨むでしょう。神様を心から、いのちをかけて愛するようになるでしょう。もし私たちが心から神様を愛することができないのなら、それは常識的で、知性的で、人間的な次元の信仰にすぎません。本当にイエス様が私たちのために復活されたということを信じるのなら、適当に信じることはできません。

初代教会の信徒たちを見てください。有名な人も、権力者もいませんでした。しかし、彼らはヨーロッパを変化させました。ローマ帝国も、聖霊に満たされて敵をも愛し、赦すことができる彼らの偉大な態度に打ち勝つことができませんでした。それが、イエス・キリストを主として受け入れた人々が持つ驚くべき力です。

私たちの主であられるイエス・キリストを宣言しなければなりません。王の王、復活された救い主、再び来られる主を、全世界に伝えなければなりません。復活を否定する人の力も、十字架を嘲笑う人の力も、聖書を否定する人の力も、私たちを打ち負かすことはできません。なぜなら、イエス・キリストは生きて働かれる方だからです。

 

祈り

天のお父様! 感謝と賛美と栄光をおささげいたします。私たちの周りの主を信じていない人々のせいではなく、イエス様のことを誤って信じ、聖書を否定し、復活を否定し、人として来られたイエス・キリストを否定する人々によって、教会が病んでいっているのを見ます。主よ、キリストの十字架をもう一度高く掲げさせてくださり、復活の力が信徒たちの愛を通して現れるようにしてください。この世のすべての不義と不正、腐敗と悪がキリストの御名によってなくなりますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

本文は、『リビングライフ STORY 2021年6月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。

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