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謙遜が信仰の年輪を太くします
by.CGNTV
hit 645 recomend 116 2021-08-03 09:44:28

謙遜が信仰の年輪を太くします

 

ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師

 

[マタイの福音書23章1~12節]

 

今日のみことばは、イエス様が本物の信仰と偽物の信仰について、律法学者とパリサイ人たちのたとえで語られたものです。私たちは、初めは純粋に信仰生活を始めます。しかし、時が経つにつれて、いつの間にか自分の信仰が変質していることに気がつきます。私たちは、パリサイ人や律法学者たちの姿を通して、汚染され、変質してしまった自らの信仰を本物の信仰に立ち返らせなければなりません。

 

人為的に作り出す権威

「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。『律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています』」(マタ 23:1~2)。

第一に、偽りの信仰、偽善的な信仰は、神様が与えてくださったものを人間的なものに変えてしまいます。つまり、神様の御力と権威を人間の力と権威に置き換えるということです。2節を見ると、「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています」とあります。律法学者やパリサイ人とは、神様のことばである律法、すなわち十戒とモーセ五書の専門家たちです。律法学者は、神様のことばを正確に解釈し、人々に教えることのできる解釈の専門家でした。パリサイ人は、律法学者たちが解釈した律法のすべての定めを、その通りに守ろうとして生涯努力する特別な人々でした。しかし、そのような良い立場と権威が与えられていたにもかかわらず、彼らは実際には偽りの信仰を代表する人になっていました。

今日もこのようなクリスチャンがたくさんいます。キリスト教の最大の危機は、神様が与えてくださった霊的な祝福を世俗的なものに変えてしまうことです。初代教会のペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使 3:6)と言いました。実際、彼らにはお金はなく、権力も家もありませんでした。しかし、彼らには神様の力がありました。それで、生まれつき足の不自由な人を歩かせることができたのです。

ところが、中世にはどのようなことが起きていたでしょうか。教会にはお金がたくさん教会に入ってくるようになり、金や大理石で教会を飾るようになりました。それで、トマス・アクィナスは、このような言葉を残しています。「初代教会には金銀はありませんでしたが、ナザレのイエス・キリストの名がありました。しかし、今日の教会は、お金があり、人も多くなりましたが、『ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』と言う力を失ってしまいました」 これが今日の教会とクリスチャンの悲劇です。教会は、何かを起こすことができるほどの力もお金も手にしました。しかし、霊的な力は失ってしまったのです。

 

言葉と行いが一致しない

第二に、偽りの信仰は、ことばと行いが一致していません。

「『ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです』」(マタ 23:3)。

神様は、ことばと行いが一致している方です。神様が「光、あれ」と言われると、光がありました。イエス様が「起きて、歩きなさい」と言われると、起きて歩き、「悪霊よ、出て行け」と言われると、出て行きます。イエス様には、ことばと行いの不一致が見られません。ですから、イエス・キリストを救い主として受け入れた人々は、だんだんことばと行いが一致していきます。それが、「真実な」姿です。

どんな人がイエス様を本当に信じている人でしょうか。神様が真実であられるように、生活態度が真実な人です。神様の働きをするとき、静かに祈って、喜んでする人がいます。そのような人は、人に良く見られるために努力したりしません。自分を誇ったりもしません。しかし、偽りの信仰の人は、行動する前にことばから発し、10分ほど祈れば「祈った」と自慢して回ります。イエス様は、律法学者やパリサイ人たちの信仰は見せかけだけのものだと指摘されました。口はうまくても、行いの伴わない人には気をつけてください。

 

口だけで生きる

第三に、偽りの信仰は、何でも人に押しつけようとします。

「『また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません』」(マタ 23:4)。

このような人は、良いことを語っておきながら、それをほかの人々に強要します。このような危機に最も多く陥りやすい人は、牧師です。自分は守らないのに、教会員には守らせようとします。律法学者たちは、厳しい決まりをたくさん作りました。しかし、それは自分たちが守るために作ったのではなく、人々に守らせるために作ったものでした。同時に、彼らは律法的な専門知識によって、自分は上手く切り抜けることができるように作りました。そして、自分は姦淫も人殺しもしていないと言いました。しかし、イエス様はそのようには見ず、「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」(マタ 5:28)と、彼らの心を見抜かれました。

イギリスのある有名な宗教家が、「イエスを信じている人の中で気に入らない人がいる。それは、貧しい人のために生きなければならないと叫ぶ人だ」と言いました。その理由を聞いてみると、「そのように言う人ほど、貧しい人のために生きず、ただ叫んでいるだけだからだ」と答えたそうです。

本当に聖霊を受けた人は、ただ現場に飛び込みます。たくさん叫んだりせず、自らその場に行って暮らします。あなたはすぐにでも行動し、そのために何かをあきらめることができるでしょうか。自分にできないことを人にさせてはいけません。

 

人に良く見られようとする

第四に、偽りの信仰は、いつも人から良く見られようと努力します。

「『彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです』」(マタ 23:5~7)。

彼らは、意図的にそのようにしたのではないかもしれませんが、そのように変わってしまいました。偽りの信仰の人々は、いつも信仰の行いが人に見せるためのものになっています。これが、信仰の危機です。神様の前で祈るのではなく、人を感動させるために祈るようになります。また、献金をするときも、貧しい人を助けるときも、人々に知られるようにするようになります。しかし、私たちはすべてのことを神様の前で行わなければなりません。

聖書は、右手がすることを左手に知らせないようにしなさいと教えています。どうしたら右手がすることを左手が知らないようにすることができるでしょうか。これは、神様の前で生きなければならないという意味です。人の視線やことば、人間的な立場を考えてはならないということです。聖書の別の箇所でも「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」(マタ 6:1)と教えています。しかし、私たちは、このような過ちをたくさん犯してしまうのです。

 

謙遜に仕える者になりなさい

イエス様は、このように指摘された後、次のように言われました。

「『しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです』」(マタ 23:8~9)。

このみことばは、「先生と呼ばれることを喜んではなりません。専門家だと思って思い上がってはなりません。聖書を少し知っているからといって、少し知識が多いからといって、ほかの人を侮ってはなりません。自分の専門分野に対して謙遜になりなさい。心を低くしなさい。そうすれば、高められるでしょう」という意味です。私たちは、特別な権威を与えられたラビではなく、みな兄弟姉妹です。神の国には、地位の高い人も低い人もいません。より多く愛され、より少なく愛されるということもありません。みなが神様の民だからです。

「『また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです』」(マタ 23:10)。

だれが私たちの師ですか。イエス・キリスト以外にはおられません。人が人の師になることができますか。知識を理由として、お金を理由として、権力を理由として、地上にはあまりにもたくさんの階級があります。その階級が教会にまで入ってきました。牧師が最も上で、長老がその次で、按手執事が続き、その下に執事というふうに、階級を作ってしまいました。職責は奉仕のためにあるものであって、階級ではありません。

「『あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます』」(マタ 23:11~12)。

だれが一番偉い人だと言っていますか。自分を高くする人ではなく、自分を低くする人、謙遜な人です。あなたは謙遜な人ですか。本物の謙遜が自分のうちにありますか。

中には、謙遜な振りをする人がいます。だれかに叱られても笑ってがまんしていますが、心の中では怒りを燃やしているのなら、それは、本当の謙遜ではありません。自分の力では怒りを抑えることはできません。聖霊が臨まなければなりません。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます」(ヤコ 4:10)と言っています。

主は私たちに、このように願っておられます。「あなたの専門分野で高ぶってはいけません。お金がある人、子どもがいる人も、高ぶってはいけません。先生のような立場にあっても、誇ってはなりません。むしろ、それが謙遜の道具になるようにしなさい。あなた自身を低くし、仕える人になりなさい」

神様が私に与えてくださった恵みはすべて、ほかの人に仕えるために与えられた道具です。神様がお金を与えてくださり、子どもを与えてくださったのは、ほかの人に仕えるためなのです。その恵みをもってほかの人を支配するのではなく、仕えるのです。私たちはみな、主にあって兄弟姉妹なのです。

 

 

祈り

父なる神様。あなたの聖さによって私たちを捕らえ、あなたの御霊によって私たちをへりくだらせてください。イエス様が弟子たちの足を洗われた心を私たちにお与えください。人をこき使うのではなく、仕える者にならせてください。目に見えることに気を取られず、私たちの内面を神様によって満たすことができるよう助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2021年7月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。

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