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悔しい目にあったとき、どうするべきですか
by.CGNTV
hit 1089 recomend 80 2021-08-31 14:49:40

悔しい目にあったとき、どうするべきですか

 

 

ベク・チュンヒョン 長老会神学大学 組織神学 教授

 

 

生きていると、悔しい目にあうことがたくさんあります。そのようなことが、個人だけでなく社会、国、民族、世界の歴史の中で繰り返し起こっています。悔しい目にあったとき、私たちはどのように反応すべきなのでしょうか。また、どのように反応することが、神様に喜ばれることなのでしょうか。

 

悔しいことに対する私たちの反応

自分には過ちがないのに理不尽なことが起こると、心の奥底から怒りが込み上げてきます。時にはあまりにも深く落胆し、立ち直れないほどの絶望に陥ることもあります。聖書の中の信仰の父祖たちは、そのような状況に陥ったとき、神様に向かって叫びました。「主よ / 私の救いの神よ / 昼 / 私は叫びます。夜もあなたのみそばで。私の祈りを / あなたの御前にささげます。どうか / 私の叫びに耳を傾けてください」(詩 88:1~2)。しかし、それも数回までです。理不尽なことが続き、さらに状況が悪化したりすれば、自分が神様から見捨られたように感じ、神様の愛を疑うこともあります。「主よ / なぜ / あなたは私のたましいを退け / 私に御顔を隠されるのですか」(詩 88:14)。この世に不義が蔓延しているのを見て、預言者ハバククのように「いつまでですか」(ハバ 1:2)と訴えたり、自分で相手に報復しようとしたりもします。しかし、神様に不満をぶつけ、自分の力で復讐したとしても、本当の意味で理不尽な状況を解決することはできません。かえって状況をさらにこじらせ、悪化させるだけです。不満は不満を生み、復讐は復讐を生むだけだからです。

悔しい状況で私たちに必要なことは、問題を解決するためのその場しのぎの対応ではなく、落ち着いて正しく対応することです。まず、どうしてそのようなことが起こったのか、その原因を多角的に調べる必要があります。自分に何か問題があって、そのようなことが起こったのかもしれませんが、だからといってすべての原因が自分にあるわけではありません。自分の問題だけでなく、社会構造的な問題によって生じることのほうがはるかに多いからです。ですから、むやみに自分のせいにしてはいけません。まず自分の歩みを振り返り、よく考えてみましょう。そうすれば、信仰の目で状況をさらに理解できるようになります。すると、それまでなかった新しい視点を持つことができます。また、変革のための力も得られます。悔しくて苦しいときこそ、状況だけを見てその中に埋もれるのではなく、その向こう側を見ることが大切なのです。

 

どんな状況でも神様に信頼する

私たちは、理不尽な状況の向こう側におられる神様を見つめる必要があります。そうすれば、逆説的なことに、神様に対する私たちの信仰がもっと明らかになります。ペテロは「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら……それは神の御前に喜ばれることです」(Ⅰペテ 2:19~20)と語りました。もちろんこの箇所は、すべての不当な苦しみにただ我慢しなければならないと言っているのではありません。このみことばの要旨は、不当な苦しみを受ける瞬間も神様を見上げることが、神様の御前に喜ばれる姿だということです。イエス様は、ご自分の罪ではなく全世界の罪のために十字架を「代わりに」負われました。イエス様も苦しさのあまり、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マコ 15:34)と叫ばれました。考えてみると、イエス様こそ、最も不当な苦しみを味わわれたのです。しかし、十字架上のイエス様の姿はどうだったでしょうか。悔しいときには、すべての不条理を完全に受け入れられたイエス様の十字架を覚えましょう。その中で、私のための十字架を感じ取りましょう。そして、自分と全世界に対する神様のあわれみと愛が十字架にあることを知りましょう。そうすれば、私たちは預言者イザヤのように「天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ」(イザ 49:13)と歌うことができます。

さらに私たちは、神様がご自分の民の訴えを聞き、解決してくださる方であることを信じなければなりません。イザヤは「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神」(イザ 51:22)と告白しました。また、「いつまでですか」と叫ぶ預言者ハバククの訴えに対して、神様は、「定めの時」(さばき)は必ず臨み、もし遅くなっても遅れることはないと約束されました(ハバ 2:3)。私が望んでいる時に解決されないかもしれません。しかし、永遠の神様が私たちのすべての悔しさを見ておられることこそが、私たちにとって大きな慰めと希望になるのではないでしょうか。

 

不当な苦しみにあっているとき、

義なる神様が私の悔しさを見ておられることを覚えましょう。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2021年8月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。

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