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外側と内側が違う信仰に気をつけましょう
by.CGNTV
hit 688 recomend 115 2021-10-12 11:48:14

外側と内側が違う信仰に気をつけましょう

 

 

ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師

 

 

[ マタイの福音書23章23~28節 ]

 

イエス様は、霊的なものよりも世俗的なものを追い求め、外見だけを華やかに飾っている律法学者やパリサイ人たちに、「わざわいだ」と言われました。今回は、前回に続いて、イエス様が語られた7つのわざわいのうち、残りの3つのわざわいについて見ていきましょう。

 

恵みの始まり、十分の一

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」(マタ 23:23)。

当時の人々は、律法に従い収穫の十分の一を献げていました。旧約に「あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を、必ず献げなければならない」(申 14:22)、「地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである」(レビ 27:30)とあります。

ところで、イエス様の指摘されたことを見ると、パリサイ人と律法学者たちは、神様を愛するという理由で、ミントやイノンド、クミンの十分の一を納めていました。料理の香料であるミント、薬剤として使われるイノンドとクミンは、とても小さく細かいものです。彼らは、それらの十分の一まで細かく分けていたのです。何ともあきれた話です。今日の状況で言えば、収入の十分の一だけでなく、時間の十分の一、人からプレゼントされたものの十分の一など、何でも十分の一を分けて献げていた、ということになります。彼らは、本当に小さな物の十分の一まで献げるほど、厳格な信仰生活をしていたことが分かります。

律法で最も重要なもの

しかし、問題がありました。彼らは、目に見えることは厳しく行いましたが、目に見えないことは疎かにしていたのです。疎かにしていたというより、無視していました。彼らが無視していたものは、律法の真の精神です。それこそ、律法の本質に当たるものです。

「おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」(マタ 23:23)。

律法の最も重要な精神とは何でしょうか。それは、正義とあわれみと誠実です。「正義」は神様の「義(Justice)」を意味し、「あわれみ」は神様の「慈悲(Mercy)」を、「誠実」は神様の「真実(Faithfulness)」を意味します。

律法で最も大切なのは、自分の信仰に神様の義があるかということです。祈りや賛美、献金などではなく、心は正直か、嘘や偽善的な姿はないかということです。それは、ほかの人は見ることはできませんが、神様は見ておられます。罪深く嘘つきで自己中心的な心を見ておられます。私たちは、人を助けたり同情したりしますが、神様はその動機を見ておられます。私たちの信仰の深いところが正直か、純粋か、悪い動機や利己的な動機、劣等感はないかを見ておられます。私たちの信仰の真価は、外的な表現ではなく、私たちの心の深いところにあるのです。

神様は、私たちが節約して施しをすることには関心がありません。神様の関心は、私たちの施しの手に神様の涙があるか、神様のあわれみ深い愛があるかということです。クリスチャンにとって最も注意すべきことは、冷淡な心と無関心です。私たちの信仰の深いところには神様の涙がなければなりません。愛とあわれみがあってこそ、真の信仰なのです。

また、真の信仰とは、永遠に変わらない神様の誠実が私のうちにあることです。私たちは、誠実でなければなりません。私たちの信仰が本物かどうかは、熱心や能力とは関係ありません。初めから終わりまで変わらず、一つの道を歩むこと、困難な状況に見舞われても変わらない信仰が、本物の信仰です。

 

内容の伴った信仰

私たちがどんなに声を震わせながら祈り、きれいなお金で献金しても、心のうちに偽善と不義があるなら、神様は受け取られないでしょう。私たちの信仰の中に、人に対する無関心や赦せない思い、怒りや憎しみなどがあるなら、イエス様は「わたしは、あなたを知らない」と言われるでしょう。

このような二重の信仰生活を送っている人に対して、イエス様は「十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」(マタ 23:23)と言われました。私はこのみことばがとても好きです。収穫の十分の一だけでなく、ミントとイノンド、クミンの十分の一まで納める信仰を、イエス様は批判せず、それは祝福だと言われたからです。朝早く起きて身支度をし、誠実な態度で教会に行くことを、主は喜ばれます。私たちが心を込めて神様に仕えることを喜ばれます。

イエス様は、ミント、イノンド、クミンの十分の一を納めるなと言われたのではなく、そこに内容を伴わせなさいと言われたのです。私たちは、信仰の行いに、神様の義と愛と真実が伴わなければなりません。

イエス様は、このみことばを語られたとき、律法学者とパリサイ人たちに、2つの別名を付けられました。

「目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」(マタ 23:24)。

イエス様が彼らに付けられた別名の1つは、「目の見えない案内人」です。それは、霊的な真理を悟ることができない人、律法の中ではるかに重要な正義とあわれみと誠実を悟っていない人、律法の形は守っていても律法の精神はないがしろにしている人を意味しています。この世で最も不幸な人は、自分の目が見えていないことを知らない指導者や案内人です。盲人が盲人を案内すれば、溝に落ち、交通事故に遭うことになるでしょう。律法学者とパリサイ人たちは、自称、宗教指導者でしたが、実は目の見えていない案内人でした。

イエス様が付けられたもう1つの別名は、「らくだを飲み込んでいる」人です。ブヨとらくだは律法で汚れた生き物とされ、どちらも食べてはなりませんでした。ある人がぶどう酒を絞るとき、そこに1匹のブヨが入っていたら、そのブヨを木綿でこす誠実さはありながらも、らくだ、つまり人に見られないところで犯している内面の罪は疎かにしているというのです。陰で罪をたくさん犯しておきながら、教会に来て祈れば神様から赦されると思っている人がいます。私たちは、このようなのろわれた信仰から脱け出さなければなりません。

 

信仰の器をきよめなさい

次に、5つ目のわざわいを見てみましょう。

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。目の見えないパリサイ人」(マタ 23:25)。

人々に見られる信仰の姿を、イエス様は杯と皿にたとえられました。杯と皿の外側は形も模様も美しく、きれいで精錬された器です。しかし、その中身は貪欲と放蕩で満ちているというのです。豪華な食べ物や酒は、私たちを堕落させ、破滅させます。見た目は華やかで魅力的に生きていても、心が貪欲と放蕩で満ちているなら、神様はその人を祝福されません。イエスの御名によって自分の野望や名誉欲を満たそうとする信仰に対して、イエス様は「わざわいだ」と言われます。そのような信仰に対するイエス様の処方は何でしょうか。

「まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる」(マタ 23:26)。

「杯の内側をきよめよ」とは、すなわち私たちの心から貪欲や放蕩の根拠となるものを、すべて取り除きなさいという意味です。私たちは、信仰が成長し、聖霊に満たされることを願います。しかし、自分のうちにある罪は惜しんで捨てられない人が多いのです。それを必死で握りしめているのです。しかし、罪を取り除くまで、私たちは聖霊に満たされることはありません。自分で決断して罪を断たなければなりません。「あなたがたの心を掃除しなさい。罪を取り除きなさい。汚れたものや淫乱を取り除きなさい。そうすれば、外側もきよくなる」とイエス様は語られたのです。

 

白く塗った墓のような信仰

次に、6つ目のわざわいです。

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」(マタ 23:27~28)。

「白く塗った墓」は、外側は美しく見えると言われました。どういう意味でしょうか。律法には、死体や骨や墓に触れた者は、7日間汚れるという内容があります。それで、誤って墓に触れることがないよう、墓を白く塗って目立つようにしました。そのように白く塗った墓が太陽に照らされると、とても美しく見えました。イエス様は、そのような墓をたとえに用いられたのです。しかし、白く塗った墓は、外側は美しく見えても、中は死んだ人の骨や汚れたものでいっぱいです。それはまさに、人間のようです。華やかで素敵な服を身に着け、高い地位につき、堂々と歩いていても、人間の内面の深いところには、死人の骨や汚物で満ちているのです。

 

十字架を見上げましょう

神様は、私たちを祝福したいと願っておられます。イエス様は、このようなのろわれた信仰を持ってはならないと言っておられるのです。「私には誇れるものが何もない。私は神様の前で死んだ者と同じだ」と告白し、涙を流して嘆く心には、祝福があります。心から嘆く人だけが、柔和になれます。柔和な振りをする人は、高慢な人です。義に飢え渇いたたましいを持ち、謙遜にならなければなりません。

わざわいの信仰から祝福の信仰に立ち返るためには、イエス・キリストの十字架を見上げなければなりません。イエス様は十字架の上で沈黙し、ご自分を殺そうとする人々をのろわれませんでした。「父よ、彼らを祝福してください」と言われたイエス様の御前に出てください。その御顔を見上げてください。主が流された血潮に私たちの罪を浸さなければなりません。そうするとき、このわざわいの人生から祝福の人生へと抜け出すことができます。私たちのうちには、サタンの本性があります。しかし、イエス・キリストが私たちのために血を流して死なれたことにより、私たちは義とされました。自分の信仰の義に目を向けるのではなく、イエス・キリストだけを見上げましょう。

 

 

祈り

天の神様。私たちの信仰の中に、正義とあわれみと誠実がありますように。私たちのうちには、死体の骨のような汚れたものがたくさんあります。イエス様の聖なる血潮によって、私たちをきよめ、新しくしてください。謙遜な心で主の御前に進み出ますので、主よ、祝福してください。主は、貧しい者、嘆き悲しむ者は幸いだと言われました。私たちの人生からわざわいがなくなり、祝福で満たされますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2021年9月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。

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