反キリストとはどんな人ですか | |||||
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反キリストとはどんな人ですか
ベク・チュンヒョン 長老会神学大学 組織神学 教授
「反キリスト」という言葉は、キリストに敵対する者を意味します。どの時代にも、このような者がいましたが、多くの人は、終わりの時、すなわち「終末」に、反キリストの活動が活発になると考えています。特に、ヨハネの黙示録13章で語られている獣の数字「666」と、それが意味する反キリストが「だれなのか」に多くの関心を持っています。
聖書は、反キリストについてどのように説明しているのでしょうか。それを知るためには、反キリストという言葉が聖書でどのような意味で使われているのか確認する必要があります。
聖書が語る反キリスト
反キリストという言葉は、聖書に計5回、ヨハネの手紙だけに出てきます(Ⅰヨハ 2:18, 22;4:3、Ⅱヨハ 1:7)。第一に、ヨハネは「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります」(Ⅰヨハ 2:18)と記しています。ここで注目すべきことは、「多くの」という表現です。ヨハネは、この手紙を書いた当時を、すでに多くの反キリストが活動する「終わりの時」(終末)と見なしていました。第二に、「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです」(Ⅰヨハ 2:22)と記しています。これは、父なる神と御子イエスを否定するすべての人を反キリストと呼んだものです。第三に、「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです」(Ⅰヨハ 4:3)と記しています。イエスを(救い主と)認めない者が反キリストであり、反キリストの霊に属する者たちがすでに世に存在するということです。第四に、「こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです」(Ⅱヨハ 1:7)と言っています。イエスが人となって来られたこと、つまりイエスの受肉を否定する者が反キリストです。ヨハネの当時にも、このように主張する群れが教会内に多くいました。彼らはイエスの神性を強調するあまり、イエスが真の人間のからだを持たれたことを認めませんでした。イエスの地上での歩みと死は、幻であったと主張したのです。イエスの受肉を否定するこの異端の思想を、教会史では「仮現説」(docetism)と呼びます。
終末の真の意味
私たちは、反キリストという言葉に触れるとき、イエスの受肉を認め、イエスを遣わされた父なる神に対してさらに強い確信を持たなければなりません。しかし、今日の多くのクリスチャンは、「反キリスト」と言えば、これから来る終末に現れて教会を迫害する、恐ろしい存在のように考えています。聖書において「終末」(ギリシア語:エスカトン)には、「終わり、最後」(end)という意味もありますが、「目的」(ギリシア語:テロス)という意味もあります。再臨されるイエスは、「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後(エスカトン)である。初めであり、終わり(テロス)である」(黙 22:13)と語られました。つまり、終末という言葉は、「終わり」(end)という意味と「目的」(end)という意味を併せ持っているのです。目的とは、神が備えられたもので、私たちが全力を尽くして追求すべき人生のビジョンです。
反キリストや終末、ヨハネの黙示録のみことばを、この世の終わりに起こる恐ろしいことだと考えるべきではありません。神が私たちにこのような啓示を与えられた理由は、私たちを恐れさせるためではありません。迫害されているクリスチャンに、現在に対しては信仰を持ち、未来に対しては天の御国の希望を持って生きるように勧め、励ますために与えてくださったものなのです。それでイエスは、公生涯を始めて最初に「悔い改めなさい。天の御国(神の国)が近づいたから」(マタ 3:2)と叫ばれました。このみことばを通して、天の御国が近づいたという終末論的な宣言であると同時に、現在の人生において最も関心を持つべきことが何であるかを教えてくださったのです。つまり、悔い改めて新しい人生を生きなさいという宣言です。このような終末の意味を正確にとらえた宗教改革者マルティン・ルターは、「たとえ明日世界が滅びようとも、今日、私はリンゴの木を植える」と言いました。私たちは、「反キリストはだれなのか」という単純な好奇心に心を奪われるべきではありません。終末を盲目的に恐れるべきでもありません。与えられた今日という日に感謝し、新たに与えられる未来に望みを置いて生きていくべきなのです。
クリスチャンの関心は、反キリストではなく、
終末の人生を生き抜くことにあるべきです。
本文は、『リビングライフ STORY 2021年11月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。