キリスト者の霊的成熟の必要性 | |||||
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キリスト者の霊的成熟の必要性
峯野龍弘 ウェスレアン・ホーリネス教団 淀橋教会 主管牧師
私たちキリスト者は、この世にあってどのようなキリスト者生活を、過ごさなければならないのでしょうか。
この世の一般的な世俗宗教においては、立身出世して社会的に評価の高い裕福な立派な人になることであったり、病や精神的苦悩から救われて、平安のうちに、日々、家族や他の人々と平和に暮らせることであったり、さらにある人々においては、倫理的、精神的に高尚、高潔、高徳な生き方をする人間となることであったりいたします。しかし、これらはみな、総じて「自分自身の幸福願望の達成」と集約することができましょう。しかし、果たして私たちキリスト者は、どのようであるべきなのでしょうか。
このことに関して使徒パウロは、エフェソの教会の信徒たちに、極めて明快に、すばらしい生き方を教え示しています。
そこで、以下において、それを手短に言及してみましょう。
神の御計画と御心によった
キリスト者の選びと救い
そもそもキリスト者の選びと救いは、私たち「人間の願望や意思」を遥かに越えた、「神の御計画と選び」によったものであるというのが、使徒パウロが明示する教理の大前提です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェ 1:4~5)。つまり「人間の願望や意思」以前に、そこには「神の御計画と選び」、すなわち「神の御心」(同1:5b, 9b, 11a)があったのです。何と驚くばかりの神の愛と恵みでしょうか!
キリストの満ちあふれる豊かさになるまで
成熟する生涯
では、私たちキリスト者は、どのような生き方を目指すべきなのでしょうか。パウロは、エフェソの信徒たちに、明白にこう勧めています。「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(同4:13b)。そして、「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(同4:15)と。なぜなら、これが私たちを愛し、この世から救い出し、神の子、キリスト者としてくださった神の「御計画」であり、「御心」であったからです。それで、これに先立ちパウロは、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」なさい(同4:1)とも前置きしています。
「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」こと、これこそまさに、使徒パウロがエフェソの信徒たちに求めた「キリスト者の霊的成熟の必要性」でした。私たちキリスト者にとっては、この地上での信仰生涯を通じて、最後の一息まで、この霊的成熟を求めて生きることが不可欠な必要事なのです。
果たして私たちにそんなことは可能なのでしょうか。パウロは、フィリピの手紙においてこう述べています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(フィリ 3:12)、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(同13~14)と。そうです、「霊的成熟」は、天に召されるまで完成はありません。しかし、この「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで」という聖なる目標を目指して「全身を向けつつ、……ひたすら走る」、この純粋な生き方の中に、常に無限の成長と祝福が伴うのです。何よりも、その心の中にキリストが内住され、キリストの愛が豊かに宿り、増し加わっていくのです。これこそが「霊的成熟の極致」であり、使徒パウロのあの「愛の祈り」(エフェ 3:14~21)のゆえんでもありました。
* 聖句は、新共同訳からの引用です。
峯野龍弘
日本大学法学部法律学科、東京聖書学校卒業。米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学より名誉神学博士号授与。日本基督教団桜ヶ丘教会にて牧会。1968年よりウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会およびブランチ教会を司る主管牧師。
本文は、『リビングライフ STORY 2022年2月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。