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木が歌う歌
by.CGNTV
hit 118 recomend 41 2022-02-15 13:20:22

木が歌う歌

 

ナムエン 良い音楽研究所 代表、ストーリー・シンガーソングライター

 

私はクリスチャンホームで生まれ、幼い頃から主を信じていました。しかし、長い間、私に条件なく与えられたものが何なのか、それがどれほど尊いものなのかも知らず、40歳になってようやく気づきました。この世のすべてが神様の摂理の中にあることをようやく悟ったのです。それ以来、残念な過去が意味あるものになり、苦しい現実は成長の土台になり、予測できない未来にも希望を持てるようになりました。おかげで、以前よりも笑うことが多くなりました。

 

風が吹く前は

それでも、自分自身を見つめるとき、まだ重く感じる部分がありました。それは、咎の多い一人の人間として感じる限界と抑圧でした。救いの確信と信仰だけでは解決できない問題でした。ある人は、救いを、束縛から自由と解放への分岐点だと言います。救われてもまだ不安があるなら真の自由と救いの確信がないからだと言う人に会うと、私の心はさらに重くなりました。私はイエス様について語り、歌うクリスチャンアーティストなので、信仰者としての生き方について問い続けざるを得ません。私は混沌とした状態でしたが、イエス様のことを語り、歌う機会は増えていきました。混沌の時間を乗り越えられたのは、神の恵みと回心する前の経験のおかげだったと言っても過言ではありません。音楽という表現方法に接し始めた思春期以降は、文字通り「めちゃくちゃな人生」でした。青年になると次第に人と交わらなくなり、世に対して自暴自棄の状態で生きていました。若い無名のミュージシャンの人生は、自ら火に飛び込む蛾のように、燃え尽きて死ぬか全身に傷を残したまま飛べなくなるというのが実情です。そのような答えのない状態でさまよった経験があったおかげで、信仰の混沌を受け入れやすかったのかもしれません。整理されないまま生きる方法を体得したと言えます。

ある年の夏、野外コンサートに参加した私は、自分の番を待っていました。少しの緊張と暑さにより、じっとしているだけでも汗が首をつたって流れ落ちました。その時、風に揺れる木が声を出しているように感じました。その声にじっと耳を傾けていると、木はさらに大きな声を出しました。しばらく周りの音が何も聞こえなくなるほど大きな声を出しました。とても長い間、風を待っていた木が歌う歌のようでした。木を揺らした風は、その音を乗せて私の全身を包みこみました。自分の演奏を終えた私は、宿舎に戻って木と風が与えてくれた感動を込めて『木が歌う歌』という曲を作りました。「風が吹く前は / 木が歌うとは知らなかった / ……風が木を歌う / 長く待ちわびて歌う / その歌 木が歌う歌 / 風とともに歌う歌 / ……風が吹く前に / 木がときめいている」

歌詞を書いていると、ふとみことばが浮かびました。聖書をめくって私の心に響くそのみことばを探しました。神様が私に語ってくださったみことばだと確信しました。「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」(ロマ 8:23)。このみことばは、何度も読んできたはずですが、忘れていた記憶を呼び覚ましてくれる瞬間でした。私は、毎日近づいて来られるイエス・キリストの問いに答えを見つけたような大きな喜びを感じました。いつ吹いてくるか分からない風をじっと待ちわびる木の心と、嘆きながら肉体の贖いを待ち望むパウロの告白が、私と重なった瞬間でした。私は思わず主の御名を呼び求めました。

 

また風が吹く

しばらく風が止みました。木はまた吹いてくる風を待ちわびながら、じっとそこにいるでしょう。私も解決された人としてではなく、いまだに問題だらけのまま、うめくように待ち続けます。「あなたは私をだれだと思うのか」という主の質問に毎日誠実に答えながら、暗闇の時に小さな火種ででも主に御名を表せるようになれたらと願います。この思いを与えてくださったイエスの名によって、今日も私が私であることに感謝し、与えられた道を歩もうと自分を励ましています。

 

本文は、『リビングライフ STORY 2022年2月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。

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