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殺人~殺人の本質は何なのか~
by.CGNTV
hit 499 recomend 91 2022-03-15 11:37:45

殺人

~殺人の本質は何なのか~

 

チョ・ジョンミン ベーシック教会 牧師

 

自分が知っていることを疑いなさい

山上の説教の中で、イエス様は「わたしの意図は、あなたがたが知っていることと違う」と何度も繰り返し語られました。私たちも、人から聞いたことと真実が全く違っていることが、どれほど多いか分かりません。前後左右の事柄をすべて省いて一つの事実だけを話すなら、別の内容になってしまうのです。同じように、神様のことばも人を介して伝えられると、本来の意味と違ってきます。それが自分で聖書を読む前に、聖書の解釈を読んだり聞いたりしてはならない理由です。礼拝の説教も、先に神様のことばを直接聞いて、黙想する必要があります。信仰生活の基準が、説教になってはなりません。私たちの基準は、ただ聖書であり、イエス様です。

ちょっと考えてみましょう。オリンピックやワールドカップは、なぜ行われるのでしょう。だれが、どんな意図で始めたのか、調べたことがありますか。なぜ教会に行くのですか。そのような質問ができないように教え込むことを「洗脳」と言います。

私たちは、いつも「なぜ」と問わなければ、一瞬で急流に押し流されてしまいます。人生の根本的な問題の答えは、だれも教えてくれません。だから、神様に戻らなければなりません。出発点に戻らなければなりません。

 

殺人に関する衝撃的な宣言

神の国の民は、腐敗した世の塩であり、闇の中に埋もれた世の光です。では、そのようなアイデンティティを持った人々は、どのように生きるべきなのでしょうか。神様は何と言っておられるでしょうか。

「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています」(マタ 5:21)。

イエス様が最初に挙げた問題は殺人です。これは十戒の第六戒です。イエス様は、殺人の本質を次のように解釈されました。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません」(マタ 5:22)

イエス様は、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」(21節)という戒めは「怒ってはならない。兄弟に対して怒る者はさばきを受けなければならない」という深い意味を持っていると教えてくださいました。怒りが外に噴出すれば殺人であり、出口がなければ自殺です。

しかし神様は、怒りがこみ上げたとき、消極的な処方を与えておられません。怒る理由は、私たちが正しい生き方をしていないことが原因なので、事前に処置を取るようにと教えられました。積極的に善を行えと言われたのです。善を行うことは、人助け以上のことです。善を行うためには、善なる方を知って、真の善の基準を見なければなりません。そして、その方に似ていくことが、善を行うということなのです。

イエス様は、殺人の動機から点検されました。「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタ 5:22)。

イエス様は、殺人は怒りから出たものだが、怒って人を軽蔑し、悪口を言うことは、殺人と同じだと言われました。衝撃的なことばです。私たちはみな、人を軽蔑し、嘲笑ったことがありますが、それが殺人だとは思ったこともありません。イエス様のこのみことばを、真摯に受けとめなければなりません。そして、今日の社会がどれほど殺人的であり、社会が怒りに満ちていることがどれほど危険なのかを知らなければなりません。

 

殺人に関するイエス様の処方

では、イエス様の処方は何でしょうか。

「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい」(マタ 5:22~23)。

当時、ささげ物を献げる祭壇はエルサレムにありました。ところが、ここでイエス様が語っておられる所はガリラヤです。ガリラヤからエルサレムまで、急いで行っても4日はかかります。とても遠くて、人々は祭りの時に一、二度行くのがやっとのことでした。エルサレム神殿に行くためには、ささげ物を誠心誠意、準備しなければなりません。ささげ物の動物には傷があってはなりません。そのようにして心をこめて祭壇の前に出たのに、不意に脳裏をよぎることがあります。数日前、友人を傷つける言葉を言ったことです。そんなときはどうしなさいと言われましたか。そのささげ物をその場に置いて、ガリラヤに戻ってその友人に謝り、関係が回復した後、再びエルサレムに上って行ってささげ物を献げなさいというのです。

これは、6日間、正しく生きてから聖日礼拝に来なさいということです。この悪しき世で、あなたがただけは善を行ってからご自分の前に来なさいと言っておられるのです。私たちはよく「礼拝にいのちをかける」と言ったりしますが、常日頃から正しく生きることこそ、いのちをかけて礼拝の時間を守ること以上のことなのです。

ところで、だれでも怒ることはあります。しかし、怒ることと罪を犯すことは違うのです。パウロは、怒ったときに、三つのことに気をつけなさいと言っています。

「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」(エペ 4:26~27)。

第一に、罪を犯してはなりません。その人を軽蔑したり悪口を言ったりしないでください。第二に、その日のうちに解決しましょう。怒りの時限はその日です。その日のうちに、怒りは解消してください。もっと長引けば、事態は取り返しがつかないほど悪化します。第三に、悪魔に機会を与えないようにしましょう。悪魔は、仕返しするあらゆるアイデアを提供してきます。様々な言葉で心を悩まします。信仰を揺さぶってきます。神様がいなくなったように感じさせます。

「殺してはならない」というのは、殺人犯になってはならないと言っているのではありません。「怒ってはならない」という意味であり、「怒っても、長い間、憤ったままでいてはならない」という意味です。近くにいる人を軽蔑せず、悪口や陰口を言ってはならないということです。私も、そのようなことは殺人とは関係がないと思っていました。みことばとは関係のない生き方をしていたのです。

ですから、私自身から深く悔い改め、決断しようと思います。隣人を無視し、悪口を言う殺人罪を犯しません。しかし、自分の力ではできません。聖霊様! 私の唇を守り、日々、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。

 

チョ・ジョンミン(曹正敏)

韓国MBCでニュースキャスターを務めた後、53歳でボストンで神学を学び、57歳で牧師となる。2013年、ベーシック教会を開拓。著書には、『なぜイエスなのか?』『なぜ救いなのか?』などがある。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2022年3月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。


 

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