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ESSAY
サタンの訴え
by.CGNTV
hit 687 recomend 128 2017-08-29 08:20:42

サタンの訴え

 

 ゼカリヤが見た第四の幻には、当時大祭司だったヨシュアが出てくる。モーセに続いてカナン征服を導いたヨシュアではなく、当時の大祭司ヨシュアである。彼はエルサレムが滅亡する時、バビロンによって殺された大祭司ゼカリヤの孫であり、エホツァダクの子で、先祖たちの跡を継いで捕囚から帰還した後、大祭司として活躍した人物である。ゼカリヤは、日頃から彼と交流があったので、だれであるかすぐにわかったことだろう。

 ゼカリヤが主の前に立っていると、サタンがヨシュアの右手に立って彼を訴えていた。

 

 ゼカリヤ3:1 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。

 

 まるで法廷のような状況である。大祭司ヨシュアが罪を犯した被告となり、裁判長である神の前に立っているのである。ここで「主の使い」と翻訳されているが、これはただの御使いのひとりではなく、子なる神を意味する。

 ところが、この大祭司ヨシュアをサタンが訴えている。「サタン」にはヘブル語で“告発者”あるいは“非難者”という意味がある。サタンはいつも訴えて非難するからである。ヨハネの黙示録12章を見ると、サタンのことを「日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言っている。サタンの訴えには何の根拠もなく、偽りで攻撃する訴えもあるが、時には正当な根拠のある訴えもある。何の罪や過ちもない人を攻撃したりもするが、大部分は法に基づいた攻撃をする。その根拠は何であろうか。人々が行なった罪と咎である。すべての人は罪人なので、サタンは人々が行なった罪を根拠に訴える。それで、時にサタンの訴えはとても正当なもののように見える。

 ゼカリヤ書の幻で、サタンがヨシュアを訴えている理由は何であろうか。それは、大祭司ヨシュアがよごれた服を着ているからである。

 

 ゼカリヤ3:3 ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。

 

 大祭司がよごれた服を着て立っているということは、律法からすれば、ありえないことである。ここでよごれるとは、ほこりがちょっとついている程度ではなく、汚物をかぶった状態で、ひどく汚れた状態を意味する。律法によると、大祭司は必ず定められた服を着て奉仕しなければならない。十二の宝石がはめこまれ、神の御心を見分ける二つの石ウリムとトンミムの入ったきよい服を着なければならない。もし定められた衣服を着ないなら、神の前で殺されることもあった。モーセの時代に、ナダブとアビフは、定められた火ではなく、異なった火を主の前にささげて、殺された。

 よごれた服を着ているヨシュアの姿は、ただ大祭司ヨシュアの姿だけを意味しているわけではない。大祭司はすべての民を代表する職なので、彼が汚れた服を着ているということは、すべての民が汚れた服を着ているのと同じである。したがって、サタンは、ヨシュアだけでなく、すべての民を訴えているのである。

 サタンはなぜ、よごれた服を着て立っているヨシュアを訴えるのであろうか。神の律法が守られることを切に願ってであろうか。そうではない。大祭司ヨシュアと民が神の律法を守ることによって神の祝福を味わわせるためであろうか。そうでもない。サタンが訴える根拠は神の律法であるが、訴える動機はのろうためである。今新しく始めようとしている神の働きを妨げるためである。捕囚から帰還した民が神殿を再建してエルサレムを回復できないよう、民を落胆させるためである。

 サタンの告訴状には、おそらく次のような内容が書かれていたことだろう。

 「神は、彼らのように罪や咎のある人々は受け入れることはおできにならない。神は律法どおりにさばかれる。それゆえ、彼らが今しようとしているすべての働きはあきらめなければならない。イスラエルは悪い民なのでさばきを受け、いまだに悪い民である。彼らはのろいとさばきで終わらなければならず、新しい始まりなどありえない。神殿は再建されてはならず、むしろ今のように罪を楽しみながら生きさせるべきである」

 サタンの目的は、神の民が試みようとしている聖なる働きをあきらめさせ、サタンの思いどおりに彼らが罪の中にとどまって生きるようにすることである。当時の民の状態を見ると、このようなサタンの訴えが受け入れられてもおかしくなかった。当時、捕囚から帰還した民はもちろん、祭司たちまでも神の前に真実でなかった。祭司たちは、捕囚から帰還した後も、律法が禁じた外国人との結婚を依然として行い、指導者エズラからとがめられもした。祭司と民が神の庭を聖くするどころか汚していたので、サタンの訴えは支持されてもおかしくなかった。ところが、裁判長である神は、意外な判決を下される。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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