「わたしはよみがえりです。いのちです」 | |||||
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「わたしはよみがえりです。いのちです」
蓮沼キリスト教会牧師 遠藤 潔
昨年、私は3人の信仰の友を亡くしました。いずれも急性心臓疾患が死因でした。「きのう元気にいっしょに聖書の学びをしたのに」「先週、親しく語り合ったばかりなのに」と、突然の訃報に信じられない思いでいっぱいでした。沈黙のうちに横たわる遺体と対面し、葬式を行い、遺体を火葬に付し、骨を拾って骨壷に納めました。
これら一連の過程を通して、愛する友の死の事実を確かめましたが、それでもなお信じられないという思いと、「どうして逝ってしまったんだ?」という叫びを抑えることができませんでした。
また、自分の死についても考えさせられました。私も必ず死ぬこと。しかも、その死は突然におとずれ、きょうが人生の最後の日になるかもしれないということ。死をもってすべての仕事をやりかけで終えなければならないこと。死ぬ瞬間はどんな感じなのか、死後この私はどうなるのか、この世界はどうなっていくのか、遺された者たちはどんな思いを抱くのか等々、自分の死をあれこれ思い巡らしては、生を呑み尽くす死の力に圧倒され、打ちのめされる思いになりました。
そのような中で、心に響いてきたのは、詩篇23篇のみことばでした。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩 23:4)。
死の陰の中に光を見いだすには、まことのいのちであられるイエス様と向き合う以外にありません。私は、ヨハネの福音書11章のラザロの死と生き返りの出来事を思い巡らしました。
ベタニヤ村のラザロは死んで葬られ、すでに4日が経ち、すでに腐敗が始まっていました。イエス様が到着した時、姉のマルタとマリヤはそれぞれに「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハ 11:21, 32)と言いました。目の前のラザロの死は彼女たちを圧倒し、泣く以外にどうすることもできなくさせていました。イエス様も、人類の代表者アダムの堕落による罪のゆえに死ななければならなくなった人類の現実を深くあわれみ、死という事実に激しい「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」(ヨハ 11:33)、愛するラザロの死に「涙を流され」ました(ヨハ 11:35)。愛する者の死に、ともに涙を流して泣いてくださるイエス様がおられることは、なんという慰めでしょうか。
しかし、それで終わりませんでした。イエス様は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」(ヨハ 11:40)と言い、ラザロの墓石を取りのけさせ、大声で「ラザロよ。出て来なさい」と言われました。すると、死んでいたラザロが、亜麻布で顔と手、足、胴体を巻かれたまま墓から出てきました(ヨハ 11:41~44)。
イエス様は、愛する者を失う痛みと、死に対する憤りを身をもって深く味わわれ、その上で、御父のおこころに従い、十字架へと歩みを進めてくださいました。イエス様は人類の新しい代表として、私たちを苦しめる罪と死とをその身に引き受けてくださったのです。
イエス様の十字架の死は、罪深い私の死を代わりに死んでくださったところの死であり、十字架のイエス様において、罪深い私は神にさばかれ、のろわれて死んだのです。そして、イエス様は死を打ち破って、よみがえられました。二度と死ぬことのない永遠のいのちをもって、栄光のからだでよみがえらされ、天の父なる神の右に挙げられました。神様はこのイエス様において、罪の刑罰である死を断ち切り、私たちを永遠のいのちへと招いてくださっているのです。
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか 』」(ヨハ 11:25~26)。
イエス様は死んだラザロを生き返らせました。イエス様はいのちを支配される神、死に勝利された復活の主、罪人にいのちを取り戻させ、生かしてくださる救い主です。
よみがえり(復活)とは、死から始まるいのち、死をくぐって輝き出すいのち、死によってもなくならないいのちです。復活そのものであられるイエス様を信じ、イエス様に結ばれて歩むとき、私たちも復活の歩みを与えられます。倒れても立ち上がり、窮しても開かれ、日々新たに引き上げられます。そして、人生の最期は永遠への門口となり、世の終わりの日には、栄光のからだをもって復活するということが現実となるのです。
まことのいのちであられるイエス様は、きょう私たちに言っておられます。「わたしを信じなさい」と。
遠藤 潔
東京基督神学校卒業。日本長老教会教師。
八王子キリスト告白教会、希望キリスト教会を牧会した後、2007年より蓮沼キリスト教会牧師。
本文は、『リビングライフ STORY 2018年4月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。