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ESSAY
王である祭司に永遠にかぶせられる冠
by.CGNTV
hit 83 recomend 17 2018-04-10 06:20:08

王である祭司に永遠にかぶせられる冠

 

 私たちが神の心をすっきりさせる方法は何であろうか。私たちがさばきの対象となることであろうか。そうではない。神の公義を満足させるために十字架につけられたイエスの死を、私たちのための死として信じて受け入れ、救われるとき、神の心がすっきりするのである。キリストの十字架に従って自分を否定し、罪悪を離れ、神の公義によってさばかれる必要のない人生を生きるとき、神の心がすっきりするのである。

 神の心がすっきりすると、私たちの心もすっきりする。神の心が喜ぶとき、私たちの心も喜ばなければ

ならない。神の心が悲しむとき、私たちの心も悲しまなければならない。私たちは、神の側に立っていなければならず、神の御心にかなった心にならなければならない。

 ゼカリヤ書6章9節から15節には、これまでの八つの幻を締めくくる出来事が出てくる。それは、ゼカリヤが大祭司ヨシュアに冠をかぶらせる象徴的な行動である。これは幻ではなく、象徴的かつ預言的な行動で、これまですべての幻の結論となる。

 

 ゼカリヤ6:9-11 ついで私に次のような主のことばがあった。「捕囚の民であったヘルダイ、トビヤ、エダヤからささげ物を受け取り、その日、あなたはバビロンから帰って来たゼパニヤの子ヨシヤの家へ行け。あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、

 

 神は、ゼカリヤにとても不思議に思えることをするよう命じられる。捕囚から帰って来た人々から金と銀を受け取り、冠を作って大祭司ヨシュアにかぶらせよというのである。ヨシュアは王でなく大祭司であり、大祭司は冠をかぶる必要もなく、かぶってもならなかった。これは、当時のペルシャ王に知られたら、反逆を企てたものと誤解されうる行動であった。ところが、神はゼカリヤにこのことをするよう命じられる。

 大祭司ヨシュアが冠をかぶると、どうなるのだろうか。ヨシュアは大祭司であると同時に、王となる。だとすると、ゼルバベルという政治指導者は辞表を出し、ヨシュアひとりで政治、経済、宗教のすべての領域を統治するようになるというのだろうか。そうではない。

 大祭司ヨシュアに冠をかぶらせたのは、とても預言的で象徴的な行動である。神は時々、預言者たちにこのような象徴的な行動をさせられることがある。このような行為説教はエゼキエルが最も多く行ったが、彼は妻が突然死んではならなかった。エゼキエルが妻の死にも悲しまないのを見て、その理由を不思議に思う人々に「神はイスラエルが滅んでも悲しまない」というメッセージを伝えるためであった。ホセアは、淫乱な妻ゴメルを何度も赦して一緒にくらさなければならなかった。これは、ゴメルのような私たちを見捨てず、一緒に暮らされるということを伝えるためであった。

 大祭司ヨシュアに冠をかぶらせたのは、彼が実際に王であるからではなく、ある出来事に対する預言的な行動であった。その根拠は次のようなものである。

 第一に、冠という単語がヘブル語聖書原文では複数形で記されていりうことである。これは冠がいくつもあったという意味ではない。ヘブル語で複数形は神的栄光を含意するときに用いられる。天をただ天(単数形)とは言わず、天(複数形)という。エロヒムも複数形である。これを尊厳の複数形と言う。これはヨシュア個人の栄光ではなく、彼が将来来られるメシヤを象徴し、予表していることを教えている。

 第二に、その冠は、ヨシュアがかぶって家に行くのではなく、神殿に保管されたことである。

 

 ゼカリヤ6:14 その冠は、ヘルダイ、トビヤ、エダヤ、ゼパニヤの子ヨシヤの記念として、主の神殿のうちに残ろう。

 

 ヨシュアの頭にしばしかぶせられた冠は、脱がされて神殿の中に保管された。これは金と銀をささげた人々を記念するためであると聖書は語っている。しかし、人々は、神殿に保管された冠を見るたびに、だれがあの冠をかぶるであろうかと考えるようになる。野心を抱いてその冠を狙う者たちもいるだろうが、だれも自分こそがその冠をかぶるべきだと主張することはできない。

 イスラエルは、まことのイスラエルの王がその冠をかぶる時まで、ひたすら待ち続けた。ただ神が預言者たちに与えられた約束が成就する時まで、その冠は神殿で待っていた。ところが、神はその冠をかぶられる方がだれであるかを、ゼカリヤを通して語られた。それは若枝と呼ばれるイエス・キリストである。

 

 ゼカリヤ6:12-13 彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。』

 

 「若枝(若芽)」と呼ばれる人が自分のいる所から芽を出し、王座に着いて治めると同時に、祭司になるというのである(訳者注:「その王座のかたわらに」と翻訳されたヘブル語聖書原文は「彼の王座の上に」)。彼は王職と祭司職を統合して務める方である。この方こそイエス・キリストである。イエスは大祭司として神と人間との仲保者となられた。同時に、イエスは王の王として万物を統べ納め、さばきを行う統治者となられた。

 歴史上、だれもこの二つの職を一つに統合することはできなかった。仲保者となると同時に、統治者になることができる人はだれもいない。イエスは十字架でご自分を贖いのいけにえとしてささげることにより、大祭司職を全うされた。同時に、十字架の死にまでへりくだられたイエスを神がきわめて高く上げ、天と地のいっさいの権威を与えられた。この方は「王である祭司」である。そして、キリストにある聖徒たちも、王である祭司となるのである。

 

 Ⅰペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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