恵みの福音 | |||||
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恵みの福音
ニコデモ宣教会 牧師 チャン・ジェユン
イエス様を信じるとは、どういうことでしょうか。それは、イエス様が神の子であること、十字架上で成し遂げられたこと、復活されたこと、そして再び来られることを、しっかりと信じることです。ここでは、十字架の上で全うされたことについて考えてみたいと思います。
イエス様は、人類すべての罪を負って、ただ一度だけいけにえとなって十字架で死なれました。すべての人のための贖いの代価としてご自身をお与えになったのです(Ⅰテモ 2:6)。そして、十字架の血潮がイエス様を信じるすべての人の罪、すなわち過去、現在、未来の罪をすべて洗い流したのです。
ある人は、自分の未来の罪まで赦されたということを理解できません。しかし、イエス様は十字架の上で「すべて完了した」と宣言されました。「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです」(ヘブ 7:27)。キリストはただ一度ご自分をささげましたが、もはやいけにえは必要ないということが、聖書のいろいろな箇所に記録されています(ロマ 6:10、ヘブ 9:12, 26, 28;10:2、Ⅰペテ 3:18)。イエス様の血潮は、きのうもきょうも、これからも効力を発揮し続けるのです。神様は、私たちの信仰を見て義としてくださいます。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ロマ 5:1)。
ところで、罪人であった私たちが信仰によって義とされるということを、すぐに受け入れられない人も多いのではないでしょうか。なぜなら、自分のことは自分が一番よく知っているので、こんな自分が無償で義とされるということを受け入れられないのです。自分が信仰によって義とされることを受け入れられない人は、イエス様を信じても前向きになれません。
私たちは、信仰によって義とされたことを感謝して受け入れるべきです。神様が私をご覧になるとき、私のうちに生きておられるイエス・キリストをまずご覧になり、私たちを義と認めてくださいます。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです……」(ガラ 2:20)。私たちは弱いので、願わない罪を犯してしまいますが、そのとき、イエス様の血潮がその罪を洗ってくださいます。ですから、私たちは義とされた状態にとどまることができるのです。
私たちは、罪人から義人に変えられました。「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである」(ヘブ 8:12)。かつて罪人であった私たちが、今は義人となったことを知ることが、恵みの福音に目ざめるということです。
では、その後、簡単に罪を犯し、自分の思いどおりに生きてもよいのでしょうか。そうではありません。人が恵みの福音を知ったとき、罪は力を失います。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(Ⅰコリ 15:56)。「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです……」(ロマ 5:20)。「……私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません」(ロマ 6:15)。私たちは、毎日罪を犯してしまいますが、毎日主と交わり、自分のすべての罪を神様に打ち明けることができます。悔い改めとは、主との深い交わりの中で自分のすべての過ちや罪を告白することです。そして、イエス様の血潮によってそれらがすべて赦されたことを感謝し、罪から離れる決意をするのです。
恵みの福音を知った人にとって人生の中で最も尊いものは「イエス様の十字架の血潮」です。恵みの福音をいつも心に抱き、日々イエス様が十字架で成し遂げられたみわざを黙想しましょう。そうすれば、罪が力を失い、自分から離れていくことを経験できます。「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」(ロマ 5:21)。
私たちクリスチャンは、終末の時代を生きるすべての人にこの恵みの福音を伝えなければなりません。今は、律法の古い契約の時代ではなく、恵みの新しい時代です。「見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」(エレ 31:31)。「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます」(ヘブ 8:13)。
チャン・ジェユン
韓国ハニャン大学卒業。16年間、貿易業に従事。ソウル長老会神学校、および総神大神学研究科卒業。現在、ニコデモ宣教会牧師。前、東京オンヌリ教会主任牧師。
本文は、『リビングライフ STORY 2018年6月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。