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ESSAY
だれのための断食なのか(2)
by.CGNTV
hit 390 recomend 111 2018-05-22 11:31:40

だれのための断食なのか(2)

 

 彼らの質問に答えることにより、神は三つの問題を指摘された。

 一つめの問題は、神は心のこもっていない形式的な宗教的習慣を指摘された。

 

 ゼカリヤ7:5 「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。

 

 「このわたしのために断食したのか」という神のことばは、質問に対する直接的な答えではないが、問題の核心をつくことばである。ベテルの人々は、彼らの口で「私たちが長年いつもしてきたようにしなければなりませんか」と質問することで、これまで断食を習慣のように行ってきたことを認めている。

 信仰生活において習慣はとても大切である。習慣にならなければ生活は変わらない。定期的に礼拝をささげる習慣、ひとりでみことばを黙想して祈る習慣、信仰の家族と生活を分かち合う習慣がなければ、私たちの信仰は健全なものになりえない。しかし、真心のこもっていない習慣は、形式的な宗教生活になりかねない。信仰は“いつもしてきたように”しなければならないが、“心から、いつも新しい心”でしないなら、信仰は形式的になってしまう。

 彼らの質問で驚くべきことは、断食して嘆く行為も習慣的にすることができたということである。涙とは、悲しみの感情が自然にわき上がって出るものだが、そのような感情もないのに、習慣的に悲しんだというのである。

 いつもくり返し朝はやって来るが、聖徒の生活においては、朝ごとに新しく、すばらしい朝でなければならない。どうしたら、いつもくり返される日常が新しくなりうるであろうか。そのためには、真心をこめればよいのである。

 心を観察される神は、彼らが70年間くり返して守ってきた断食は、はたして「わたしのため」だったのかと尋ねておられる。ヘブル語聖書原文では「わたしのために」が強調されている。

 神は彼らの良心に訴えておられる。彼らが行ってきた断食は心のこもっていない断食であり、神のためのものではなかったというのである。信仰で最も大切なのは動機である。どんなことであれ、まず自分にこのように問いかけてみなければならない。

 「これは神のためだろうか。それとも、自分自身のためだろうか」

 このような問いがなければ、初めは神のためという動機から始まった多くのことが、時間の経過とともに、自分のためという動機に変質しやすくなる。自分の満足のための奉仕、自分の栄光のための奉仕がくり返されるなら、結局は自らを罪に陥れることになる。

 

 イザヤ29:13そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。」

 

 口先でささげる礼拝ではなく、心のこもった礼拝、口だけの交わりではなく、心のこもった交わり、お金だけを出す献金ではなく、心と愛のこもった献金、いつもしてきたように体だけ動かす奉仕ではなく、心のこもった奉仕、心のこもった信仰生活にならなければならない。偽りのない心は正直な心とは異なる。正直なところ、自分には神のために生きる心がないので、自分のためだけに正直に生きればよいという意味ではない。偽りのない心とは、当然そうすべき真実を抱いた心である。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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