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ESSAY
喜べ、まことの王が来られる
by.CGNTV
hit 327 recomend 104 2018-12-05 06:11:43

喜べ、まことの王が来られる

 

 9節では、私たちが喜んで迎えるべきこの王がどのような方であるかを詳しく説明している。 第一に、正しい王である。人間が王となったとき、最後まで正しさを貫いて国を治めるのが不可能 だということは、聖書と人類の歴史で周知の事実である。王の座は決して人間にはふさわしくない。 人間の言葉が法となる王政時代は決して長続きしなかった。人間は決して正しくないからである。 「真に正しい王は、アレクサンドロスのように自分の野望を満たす王ではなく、自分を犠牲にする王である。イエスは、ご自分を十字架上で犠牲にすることで、ご自分の正しさを貫いた。イエスが正しい方でなければ、私たちを救うことができず、私たちの王にもなれなかった。

 第二に、柔和な王である。この方は柔和で子ろばに乗って来られると預言されている。それから 五百年後に、イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城したことで、この預言は正確に成就した。そんな預言の成就は簡単でないかと思うかもしれないが、むしろ逆である。

当時の王は、征服者アレクサンドロスのように、馬に乗るのが慣例だったからである。王がろばに乗るということは、こっけいなことであった。しかし、イエスは、たくましい馬に乗らず、小さくて よたよた歩くろばに乗るほど、柔和で謙遜であった。イエスは、生まれた時も飼葉おけに寝かせられた。これを馬の飼葉おけと誤解している人もいるが、実際はろばの飼葉おけである。

 イエスがエルサレムに入城する時に、ろばに乗って来る王として自分を現すことは、非常に危険であった。イエスはそれまで、自分が王であることを公に知らせずに活動したが、エルサレム入城の時 は自分を現わした。この時はすでにユダヤの指導者たちがイエスを殺そうとして作戦を立てている危 険な時であった。死を避けるためには、人々の注目を受けてはならない時であった。エルサレムに入るにしても偽装して入るべき時であった。ところが、イエスは、自分を意図的に露出して標的となった。ユダヤの指導者たちが見つけやすくしたのである。

 人々はしゅろの木の枝を振り、上着を脱いで道に敷いてイエスを歓迎したが、実のところ、彼らはこれから起こる十字架を知らず、イエスを世の王として歓迎したのである。教会で聖劇をするとき、イエスがろばに乗ってエルサレムに入るとともに、歓呼する群衆に向かって手を振る演技をするが、実際にはそうでなかったようである。イエスは柔和なので、群衆の歓呼に全く動じなかったであろう。世の政治的な目的を遂げる王ではなく、十字架につけられて救いを成し遂げる王として来たからである。     

 第三に、平和の王である。

 

ゼカリヤ9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれ る。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。

 

 9節と10節の間には、少なくとも二千年以上の時が流れている。九節は、イエスの初臨ですでに成就したが、一○節はいまだ成就していないからである。10節はイエスの再臨によって成就するであろう。何年経ってこのみことばが成就するかはわからないが、今までのすべての預言が成就したので、10節の預言もいつか成就するであろう。

来るべき王は、世の王たちが増強してきた武器をなくし、戦車と軍馬と戦いの弓をなくすと言っている。なぜ武器をなくすのであろうか。戦争と武力で他国を制圧しても平和は実現しない。キリストが、十字架上でご自分のからだを捨てることで、平和がもたらされるからである。戦争で実現する平和ではなく、戦争そのものを征服することで実現する平和が訪れる。この方の平和の統治は「諸国の民に」も伝えられ、「海から海へ」、「大川(ユーフラテス)から地の果てに」まで至る。戦争に明け暮れるほかの諸民族にも平和が伝えられるのである。ユダヤ人と異邦人との間の壁が崩れ、平和が訪れる。神と人間との間を隔てていた壁が崩れ、平和が訪れる。海から海まで、ユーフラテスから地の果てまで、全世界が再び来られる王の統治を受け入れるのである。

 このような統治は、イエス・キリストを王として認めて生きる民によって、すでに部分的に実現している。私たちのビジョンは、この平和の統治を期待して、願い、慕い求めることである。私たちは、王の来臨を喜べということばの前で決断しなければならない。王として来られたこの方を、私たちは王として受け入れたであろうか。王の来臨を喜んでいるであろうか。本当に心から喜んでいるであろうか。そして、王の再臨を期待しているであろうか。正しく救いを与えてくださる王を、自分の王として受け入れたであろうか。十字架の死にまで従われた柔和な王を、自分の王として受け入れたであろうか。旧約のすべての預言を成就し、私たちのところに来られた方を王として受け入れ、あがめているであろうか。私たちのところに再び来られ、永遠の平和を実現してくださる王を待ち望んでいるであろうか。

 

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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