一対一弟子養育の意味 | |||||
|
一対一弟子養育の意味
オンヌリ教会 一対一弟子養育 担当牧師 イ・ギフン
牧会の中心的働きとなるべき弟子養育
弟子養育は、なぜ必要なのでしょうか。「イエスを信じて礼拝や奉仕をすれば、それでいいだろうに、なぜわざわざ弟子養育をするのか」と疑問を抱く人がたくさんいます。しかし、当然のことながら、すべての教会はどんな形であれ、弟子養育をしなければなりません。
その第一の理由は、イエスの働きの中心が弟子養育だったからです(マタ 10:1)。イエスは、大衆にみことばを教え、病をいやし、悪霊を追い出すなど、多様な働きをされましたが、中心的な働きは弟子養育でした。イエスは、70人を対象に訓練し、時には一対一で訓練をされましたが、多くの場合、十二弟子の訓練に集中されました。ご自分が世を離れた後、ご自分に代わって救いの働きを続けることができるよう弟子たちを訓練されたのです。
弟子養育をすべき第二の理由は、イエスが弟子たちに、人々を弟子とする働きを使命として与えられたからです(マタ 28:18~20)。イエスは、ご自分が行われた働きが弟子たちによって全世界に広がることを願われました。彼らによって、神の国が成し遂げられることを期待されました。それで、真理のみことばを教えるだけでなく、悪霊を追い出す訓練、イエスの御名によって力あるわざを行う訓練などをされました。このような訓練の成果は、イエスが十字架で死に、復活する時までは現れませんでしたが、弟子たちが聖霊を受けた後、驚くほどに現れ始めました。
聖霊によってエルサレムの教会を開拓した使徒たちは、イエスの命令に忠実でした。彼らは、イエスから訓練されたとおりに、人々を弟子とすることを教会の働きの中心に置いて牧会をしました(使 2:42)。エルサレムの教会は、養育共同体でした。この教会で、イエスを信じるということ、すなわち正式な教会員となるということは、イエスの弟子となることを意味しました。その結果、教会員たちは、迫害の中でも信仰を守り、福音を証ししました。使徒たちは、教会員たちを自分たちの弟子としたのではなく、イエスの弟子としました。教会の成長の表現が、「信徒の数が増えていった」ではなく、「弟子が加えられた/ふえた」(使 2:41;6:1, 7)となっているのは、当然のことです。ですから、今日の教会が弟子養育をすべき第三の理由は、イエスの中心の働きが弟子養育であったように、使徒たちの中心の働きも弟子養育だったからであると言えます。
使徒パウロの働きも例外ではありませんでした。パウロの弟子養育の働きが最もよく現れている所が、アンテオケの教会でした。ステパノの殉教のあと、迫害によって散らされた弟子たちがギリシヤ人に福音を伝え、信じる人の数が増えていきました。その知らせを聞いたエルサレムの教会は、バルナバを派遣して、彼らを訓練させました。一方、バルナバは、タルソにいたパウロ(サウロ)を呼んで共に働きをしました。1年間、弟子養育を熱心にした結果、弟子たちは人々から「キリスト者」と呼ばれるようになりました。ふたりは第1次宣教旅行中にも、弟子養育にまい進しました(使 14:21~23)。
パウロは、行く先々で、まず会堂に行って福音を伝えました。そして、福音を受け入れて変えられた人々を、イエスの弟子として訓練しました。ところが驚いたことに、弟子となった人々によって、教会が開拓されました。パウロは、まず最初に教会を建ててから弟子養育をしたのではなく、弟子として訓練された者たちによって自然に教会が建てられたのです。パウロと働きをともにしたほとんどの人物たちは、パウロに会ってイエスの弟子となった人々であり、彼の働きの中で登場するほとんどの教会は、彼らによって建てられました。そして、聖霊は、使徒たちを通して驚くべきみわざを起こされたように、パウロが訓練した弟子たちとその教会を通しても、福音が地の果てにまで証しされる働きをされました。パウロの働きの中心が弟子養育だったということは、教会が弟子養育をしなければならない第四の理由になります。ですから、イエスがされた弟子養育の働きが使徒たちによって余すところなく続けられたように、教会も弟子養育を続けなければなりません。
イエスが完遂された弟子養育
ジム・プットマンは、『霊的成長のための段階別弟子養育』という著書の中で、弟子養育の必要性を次のように説明しています。第一に、「弟子養育は、監督が可能性のある選手を発掘し、有能な選手になるよう訓練するのと同じである」 名監督は、完成された選手だけを起用するのではなく、今は足りない部分が多くても大物になる潜在能力のある選手を探し出して訓練し、有能な選手に育て上げる人です。牧会者は、神が立てられた霊的な監督です。信徒たちは世で暗やみの勢力と戦うべき選手たちです。牧会者が弟子養育を通して信徒たちを有能な選手に育てることができなければ、彼らは力がないまま戦うことになり、いつも敗北してしまい、最終的に彼らを世に奪われてしまうでしょう。今もどれほど多くの信仰者たちが世の荒波に押し流されながら生きているでしょうか。ですから、監督である牧会者は、選手(信徒)たちがどこででも真の礼拝者として生きていけるよう、聖書的な価値観と世界観を持って世の荒波に押し流されないよう、そして神を愛するように自分自身と隣人を愛しながら生きられるよう、自分の人生とゆだねられた仕事を誠実にこなしながら生きられるよう、訓練しなければなりません。弟子は、訓練を通して生まれます。そして、この世は彼によって変えられます。聖書がこの事実を証明しています。訓練を受けなければ、この世で影響力のあるクリスチャンとして生きることはできません。
第二に、「弟子養育は、原石を整えて宝石にすることと同じです。高価なダイヤモンドも原石そのものには価値が認められません」 いくつかの段階過程を経て初めて、宝石として誕生します。教会の中には、ダイヤモンドの原石がたくさんあります。それは、イエスを信じて救われ、新しく生まれ変わったクリスチャンです。原石が手を加えて初めて宝石になるように、クリスチャンは訓練を受けて初めて福音の宝石になります。イエスが3年間、弟子たちにいのちをかけられたのは、まさに彼らを宝石にするためでした。その結果、彼らによって社会が変わり、国が変わり、世が変わりました。それが宝石の力です。教会ごとに信徒のために礼拝の奉仕、宣教、聖書の学びなど、多様な活動やプログラムを行っています。確かにそれらは教会生活に欠かせないものですが、それらによって信徒たちを弟子として整えることはできません。信徒たちを信仰者として生きるようにさせることと、弟子として生きるようにさせることは違います。イエスは信徒たちが信仰者としてだけでなく、ご自分の弟子として生きることを願われます。ですから、牧会者は、信徒たちがイエスの弟子として生きられるように訓練しなければなりません。弟子養育は、イエスが牧会者にゆだねられた責任です。
第三に、「弟子養育はイエスが完了された働きの一つです」 イエスが十字架上で発せられた「完了した」(ヨハ 19:30)ということばには、弟子養育の働きも含まれています。イエスは、十字架の死と復活を通して父から与えられた使命を全うされました。言い換えれば、罪人である人間が救われる道を開いてくださったのです。イエスは、遣わされた者としての任務を誠実に遂行されました。しかし、イエスの使命はそれだけではありませんでした。ご自分が成し遂げられた救いを全世界に証しすべき使命を担う者たちを立てることまで含まれていました。それで主は、救いとその救いを証しする弟子たちを準備したという意味で「完了した」と言われたのです。もしイエスが弟子を養育されなかったとしたら、福音は、風が吹くと消えてしまうろうそくの火のように、エルサレムから外に広がることはなかったでしょう。
宣教の働きの中心になるべき弟子養育
弟子養育は、宣教の働きの中心になるべきです。イエスが遺言として残してくださった使命は、二つに要約できます。一つは、聖霊を受けて、地の果てにまで主の証人となることです(使 1:8)。この命令は、マルコの福音書では「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(16:15)と記され、ルカの福音書ではイエスの十字架と復活の証人になれと強調しています(24:46~48)。
しかし、一つ見過ごしていることがあります。それは、マタイの福音書28章18~20節に出てくるイエスの二つ目の命令です。これまで教会は、上記の三つのみことばを、同じみことばとして理解してきました。つまり、ただ宣教命令としてのみ理解したのです。その結果、宣教の現場で多様な働きを進めましたが、弟子養育には目を向けず、全く実践しない場合も多くありました。キャンパス・ミニストリーをする宣教団体から派遣された宣教師の一部の人たちを除けば、弟子養育を働きの中心にしている宣教師は多くないのが現実です。
しかし、イエスの命令が宣教であることは確かであり、宣教の働きの中心は弟子養育でなければなりません。このような内容を後押ししてくれるのが、ローザンヌ世界宣教会議でまとめられた『ケープタウン決意表明文』です。この決意表明文の結論を見ると、弟子を作ることに失敗することは、宣教の最も基礎的な次元で失敗することであると定義しています。つまり、弟子養育の働きのない宣教は、宣教ではないということです。
この主張を教会の状況に適用してみるなら、弟子養育のない牧会は牧会ではないと言っても過言ではありません。もちろん、異議を唱える牧会者も多いかもしれませんが、マタイの福音書に記されているイエスの命令を弟子養育として理解せず、単に宣教的な命令としてのみ理解することは問題があると考えます。イエスの願いは、教会であれ宣教地であれ、弟子養育がなされることです。
ですから、牧会の現場でも、説教の現場でも、弟子養育は働きの中心にならなければなりません。すべての教会は、信徒たちをイエスの弟子となるよう訓練しなければならず、すべての宣教師たちは現地の人々をイエスの弟子になるよう訓練しなければなりません。すべての教会と牧会者たち、そして宣教師たちが必ず覚えるべきことは「わたしについて来なさい」(マタ 4:19)、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタ 28:19)、これがイエスがゆだねられた内容のすべてだということです。ですから、弟子養育が牧会と説教の中心の働きとなるのは当然のことであり、一歩進んで、弟子がまた別の弟子を生み出すよう訓練しなければならないのです。このように、弟子養育の働きは、教会を通して続けられなければなりません。これが、イエスが願われることです。
弟子養育の働きは、大学生中心の宣教団体の専有物ではありません。すべての教会がしなければならない働きです。教会は信徒たちが世で単に教会員としてのみ生きていくのではなく、イエスの弟子として生きることができるように訓練しなければなりません。これが、教会に対するイエスの期待にほかなりません。
(これは、ソウル・オンヌリ教会が過去33年間続けてきた、一対一弟子養育についての紹介です。)
本文は、『リビングライフ STORY 2019年1月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。