主から与えられた権威を信じなさい | |||||
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主から与えられた権威を信じなさい [ マタイの福音書17章14~17節 ]
オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。
「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。
何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします」(マタ 17:14~15)。
きょうの箇所は、イエス様が山から降りてきて、悪霊につかれた息子のために悩んでいる人の問題を解決された内容です。しかし、メッセージの焦点は、悪霊につかれた子どもを解放されたイエス様の愛と力ではなく、イエス様が山から降りて来られる前に、その子どもから悪霊を追い出せなかった9人の弟子たちの不信仰に当てられています。
霊的な力を失った教会
弟子たちが悪霊を追い出すことができず、子どもを直せなかったということばを聞いたイエス様は、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう」(マタ 17:17)と嘆息されました。
私たちの最も深刻な問題がここにあります。今日、私たちの問題は、お金がないことではなく、霊的な力がないことです。教会の最大の問題は、霊的な力を失ったところにあります。使徒の働き3章6節を見ると、聖霊を受けたペテロはこのように言っています。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」
ペテロが、生まれつき足の不自由な人にそう言って、彼の右手を取って立たせると、彼の足とくるぶしが強くなって立ち上がり、歩いたり跳ねたりしながら神を賛美しつつ神殿に入っていきました。これが、真の教会、真のクリスチャンの姿です。この足の不自由な者のような私たちの人生が、イエス・キリストに出会って力を得、立ち上がって歩き、飛び跳ねながら主を賛美する教会、死と絶望と戦争と複雑な現実の中でも喜びに満ちた顔で入っていく教会をここに見ることができます。
使徒の働きのこの場面は、教会の力、クリスチャンの真の力を見せてくれています。すべてのクリスチャンと教会が所有している真の力は、金銀の力ではなく、ナザレのイエス・キリストの御名の力です。地の力ではなく天の力であり、人間の力ではなく神様の力です。
この世を見てください。主が来られるのではないかと思えるほど大きな地震やききんが次々に起こり、あちこちで紛争や絶望の叫びが起こっています。麻薬、暴力、特に異端が猛威を振るっています。書店に行けば、ニューエイジ運動の本がたくさん並び、ベストセラーになっています。ほとんどの映画やマンガ、娯楽などにはニューエイジの思想が深く浸透しています。さらには、聖書の学びの教材でさえ、その影響を受けて作られているものもあります。そのような本は、神学を学ばなければ、何が正しく、何が間違っているのかわからなくなるほど、微妙で複雑です。このようなことは、人間の道徳性と霊性がだんだん異端化、または世俗化している証拠です。
教会はどうでしょうか。教会の中を見ても、世俗化した価値観がはびこっています。疲れ果て、無気力で、影響力がありません。これは世界中に見られる現象です。
「その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした」(16節)の「お弟子たちのところに」ということばを、「教会に」と置き替えてもいいでしょう。世を変化させる力のない教会は、もはや教会ではありません。サタンの力に対抗し、悪霊のわざを抑えて追い出すことができない教会ならば、教会ではないのです。人のたましいを救うことができないなら、教会とは言えません。そこは、この世の集団にすぎないのです。
自分自身の信仰を備えなさい
では、なぜ弟子たちは悪霊につかれた子どもを助けることができなかったのでしょうか。第一に、彼らにその力がなかったからではありません。イエス様はその力をすでに与えておられました。しかし、弟子たちはその力を行使できなかったのです。その理由は、イエス様がその場におられなかったからです。今までは、すべてイエス様がなさいました。弟子たちは、ついて行きさえすればよかったのです。それで、イエス様がおられないところに悪霊につかれた子どもが連れて来られたとき、弟子たちは戸惑ってしまったのです。
周囲の人々の信仰に頼ってはいませんか。自分の信仰を支えてくれた友だちや師と離れ、自分の信仰の未熟さを思い知らされたとき、私たちはどうするべきでしょうか。イエス様が祈るために山に行っておられる間に、弟子たちはそのような霊的困難にぶつかりました。この弟子のような体験をしたことがあったとしても、安心してください。危機や苦難に直面すれば、戸惑うのは当たり前です。
しかし、ここで必要なのは、自分の信仰です。自分で神様に祈ることです。自分の信仰は、自分が責任を持たなければなりません。9人の弟子たちは、かつてイエス様が悪霊を追い出したり、病をいやされるのを何度も見てきたのに、悪霊につかれた子ども一人のために、恥ずかしい思いをしました。他人の信仰や教会の仲間の信仰、またはその場の雰囲気に流されるのではなく、自分自身の信仰をしっかりと成長させなければなりません。
与えられている権威を信じなさい
弟子たちが悪霊を追い出すことができなかった第二の理由は、悪霊を追い出すことができるということを信じなかったからです。マタイの福音書10章1節を見ると、イエス様が弟子たちを呼んで悪霊を追い出す力を授けたと書いてあります。
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった」
イエス様が弟子たちに最初に与えたのは、聖書を教える力ではなく、悪霊を追い出し、あらゆる病やわずらいをいやす力でした。マルコの福音書には次のようなみことばがあります。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます」(マコ 16:17~18)。
しかし、実際にはどうでしょうか。すべてのクリスチャンがこのような力を持っているでしょうか。ある人は、そのような力が与えられているということすら知りません。またある人は、サタンに惑わされて、その攻撃から抜け出すことができません。主のこのみことばは、必ずしも悪霊が大声でわめきながら出て行くことを言っているのではなく、自分のうちに働くサタンを阻止する力が私たちにあるという意味です。サタンは、私たちに罪を犯させようとします。しかし、信じる者には、罪を犯さない力があります。サタンのあらゆるわざに打ち勝つ力を神様から与えられているからです。しかし、多くの人々は、それを活用していません。
信じる者は、サタンに打ち勝つ力があるといことを信じなければなりません。また、悪霊を追い出す力があるということも信じなければなりません。9人の弟子たちは、それを信じることができませんでした。子どもから悪霊を追い出さなければならない状況に直面したとき、彼らは戸惑い恐れました。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペ 6:12)というみことばを覚えてください。私たちは、イエス様を信じて救われました。神様の子どもとされました。それだけを信じて終わるのではなく、サタンの勢力に打ち勝つ権威が与えられているということを信じてください。そして、その権威を活用しなければなりません。自分の心のうちにサタンの誘惑や攻撃が働くとき、それに打ち勝つことができる権威があるということを信じてください。祈れば信仰が生じますが、祈らなければ不安が先立ちます。いのりとみことばにより、信仰を強くされますように祈ります。
本文は、『リビングライフ STORY 2019年1月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。