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ESSAY
私たちはみな、ほふられる羊の群れ
by.CGNTV
hit 439 recomend 78 2019-02-27 05:09:00

私たちはみな、ほふられる羊の群れ

 

  ゼカリヤ書11章は悲惨な預言である。羊の群れが羊飼いを拒む愚かな選択をし、悲惨で残酷な滅びを迎える内容だからである。決してありえない、決してあってはならないことは、羊の群れが羊飼いを拒むことである。自ら墓穴を掘ることであり、残酷な死を招くことだからである。

実際、羊たちはそのように羊飼いを拒むことができない。ところが、羊の群れにたとえられている 人間は、まことの羊飼いであるイエス・キリストを拒んだ。人間は、うわべは羊の群れでも、中身は 狼の群れだからである。自分を守り、養ってくれるまことの羊飼いを拒む羊ほど、愚かで悪しき存在 はない。ところが、人間がまさにそのような羊の群れである。人間を救うために来られたメシヤを拒む人間のように、愚かで悪しき存在はないのである。

  羊飼いに与えられた神の命令は次のようなものである。

 

ゼカリヤ2:4 私の神、主は、こう仰せられる。「ほふるための羊の群れを養え。」

 

  神がゼカリヤに仰せられたことばだが、この瞬間、ゼカリヤは羊飼いとなって、このことばを受けている。そして、後に来られるメシヤの代理人としてこの命令を受けている。後に来られるメシヤは 羊飼いとして神の命令を受ける。

神は、ほふられる運命に置かれた羊の群れを見捨てず、あわれんで養うことを願われる方である。 羊の群れが「ほふられる」運命にあるということは、何かが間違っているということを意味する。羊飼いの保護のもと、緑の牧場に伏して過ごす幸せな生活ではなく、ほふられて羊の肉となる運命だというのである。

  人類の未来をひと言で表現すると「ほふられる羊の群れ」のようである。そのまま放っておくと悲惨な最期を迎えることになる。神はこのような状況でひとりの羊飼いを遣わし、ほふられる境遇に置かれたこの羊の群れを救って養うことを願われた。神が遣わされた羊飼いの守りのもと、羊の群れが平和を味わうことを願われた。いわゆる「ほふられる羊の群れ救出プロジェクト」である。

神が遣わされる羊飼いは、神の命令に従い、この羊の群れを養うと答える。このプロジェクトの実行者として神の命令に従ったのである。

 

ゼカリヤ11:7 私は羊の商人たちのために、ほふられる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、他の一本を、「結合」と名づけた。こうして、私は群れを飼った。

 

  神が遣わされる羊飼いは、ほふられる羊の群れをあわれみ、神の命令に従って養うと言っている。 そして、彼は二つの杖を用いると言っている。本来、羊飼いは、羊の群れを導くために二つの杖を用いる。詩篇23篇でも、主の二つの杖(むちと杖)が私の慰めであると告白している。一本の杖は野獣から羊の群れを守るのに用いられ、もう一つの杖は羊たちが危機に瀕したときに導く道具である。 この二本の杖には名がつけられていて、一つは「慈愛」、もう一つは「結合」と名づけられた。これは神が遣わされた羊飼いがどのように羊の群れを救って治めるかを説明している。まことの羊飼いとして来られたイエスが治められる国は、慈愛と結合の国である。慈愛とは、神が上から与えてくださるもので、垂直的な祝福である。結合とは、民の間で成し遂げられるもので、水平的な祝福である。 恵みによって救われ、互いに一つの共同体をなすのである。

  アダム以来、堕落した人間がそれなりに人間らしく生きることができるのは、神が慈愛の杖と結合の杖で守ってくださるからである。もし神が慈愛と結合の杖を取り去られるならば、私たちは分裂し、互いに争って滅びるしかない。私たちを本当に結合させることができるのは、神の恵み(慈愛)である。神の恵みによって私は今の私になったという告白のある人々は、ともに結合することができ る。神の恵みではなく、自分の力や成功を主張するなら、結合は壊れてしまう。

  「ほふられる羊の群れ」は、神が与えてくださる恵み(慈愛)と相互間の結合の守りのもとにある とき、ほふられる運命から脱することができる。ほふられる羊の群れ」から「神の慈愛と結合で守られ、祝福される羊の群れ」に変えられるのである。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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