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迷った一匹の羊を大切にする羊飼い
by.CGNTV
hit 954 recomend 178 2019-08-26 13:03:03

迷った一匹の羊を大切にする羊飼い

 

[ マタイの福音書18章10~14節 ]

 

オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ

 

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように

気をつけなさい……彼らの天の御使いたちは、

天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです」(マタ 18:10)。

 

 

天の御使いの保護を受ける存在

イエス様は、「弱い者だとしても、神の子を見下げてはならない」と言っておられます。その理由は何でしょうか。第一に、神の子は、天の御使いの保護を受けている存在だからです。きょうの本文の「彼らの天の御使いたち」という表現から、小さい者を守る天の御使いがいるということがわかります。人にはそれぞれ、守ってくれる御使いがいるのです。

御使いは、私たちの祈りを力づけてくれます。礼拝をささげるときに私たちを力づけ、賛美するとき一緒に賛美します。ヘブル人への手紙では、御使いは、救われた人々に仕えるために神様から遣わされた霊であると説明しています(1:14)。御使いは確かに存在し、私たちに福音を伝え、サタンの勢力から守り、危機から救い出してくれるのです。

神様が御使いを遣わし、私たちを守ってくださるということを信じてください。きょうの本文を見ると、私たちを助ける天の御使いが神様の御顔をいつも見ていると言っています。これは、私たちが困難な状況に置かれているとき、神様がすぐに御使いを遣わしてくださるという約束が秘められています。私たちの御使いは、いつも神様の御顔の前に立っています。

 

神様の絶対的な愛

神の子が尊い二つ目の理由は、イエス様の特別な愛を受けている存在だからです。11節に、「人の子は、失われている者を救うために来た」とあります。この節がなかったとしても、続くみことばで、イエス様は11節と同じ意味の生き生きとしたたとえを語っておられます。

「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです」(マタ 18:12~13)。

私たちは、この話からとても重要なことを教えられます。第一に、神様にとっては、九十九匹も一匹も同じだということです。主は、九十九匹に満足されず、真っ暗な夜、山中でさ迷っている一匹の羊を命懸けで捜されます。経済的な面から見れば、一匹を救うために払う苦労と犠牲のほうが多いにもかかわらず、そうされるのです。

神様の愛は、安全な所にいる九十九匹の羊にではなく、山で迷い、傷だらけになっている一匹の羊に向かっています。愛する価値や益があるから、愛されるのではありません。神様は、無条件に私たちを愛し、救ってくださるのです。神様にとって、九十九匹の羊も迷い出た一匹の羊も価値が同じように、金持ちも貧困な者も同様に尊んでくださいます。

第二にこのたとえから発見することは、神様は私たちの過ちを条件なしに赦してくださるということです。私たちは、凶悪な罪でも赦される特権を持った存在です。羊が迷い出たのは、羊飼いの過ちではなく、羊自身の過ちです。羊飼いが行ってはならないという所へ羊がこっそり行ったのです。私たちも、自分が苦労していて困難に直面するのは、神様が失敗したのではありません。私たちが高慢な心で自分勝手に進むから、あちこちにぶつかり、全身傷だらけになるのです。

きょうの本文を見ると、羊飼いは羊の過ちに対して叱っていません。神様は、私たちの過ちや咎に関心を持たず、あわれんでくださることがわかります。神様は、どんな犠牲を払ったとしても、あきらめることなく私たちを救うことを願っておられるのです。神様には失敗がありません。私たちは過ちを犯しますが、神様はそのために救いをあきらめたり、愛することを手控えたりはなさいません。いつでも私たちを覚え、捜し、救い出すことを願っておられます。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ロマ 5:8)。

神様は、私たちが完全な人になって教会に来ることを願っておられるのではなく、罪人の姿のままで来ることを願っておられます。私たちが今、人間的にさまざまな問題を抱えていることを、神様はよくご存じです。それをすべて解決してから神様のもとに来るようにとは決して言われません。今のままの姿で来ることを願っておられます。イエス様は、失敗し、罪深く、咎の多い私たちをそのまま受け入れてくださいます。人間は利己的で高慢で自己中心的です。本質上、御怒りを受けるべき子らです。人間は、自ら絶望を選び、不幸をもたらしました。しかし、神様は、そのような人間を条件なしに愛し、ひとり子をこの世に送り、その方は、私たちのために十字架で死なれました。そこに神様の愛が現れています。

第三に、神様の愛は待っている愛ではなく、捜す愛です。私たちが危機的な状況に陥ったとき、神様は積極的に介入してくださいます。羊飼いは羊が自分で戻って来るまで待ってはいません。放蕩息子のたとえはどうでしょうか。彼が家を出たあと、悔い改めて戻って来ました。そのとき、父親は外で待っていて、息子の姿を見るなり走って行って抱きしめました。この父親は、放蕩息子が家を出たときから息子を赦していました。神様は、私たちが罪を犯したときから赦しておられます。出て行ったときから赦し、戸を開けて待っておられるのです。

第四に、神様は私たちを捜し出し、宴会を開いて喜んでくださるということです。親は生まれた子どもを見るだけでうれしくなります。見ているだけで幸せで、時間が経つのも忘れてしまいます。神様はそのように私たちを愛しておられます。放蕩息子でも、生涯にわたって悪事を働いた子どもでも、ただ喜び、愛してくださるのです。迷い出た羊が戻ってきたとき、叱ったり忠告したりせず、ただ喜ぶだけです。

 

一人も見捨てられない神様

「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません」(マタ 18:14)。

神の子が尊い三つ目の理由は、それが神様の御心だからです。人は、手がかかって大変なことはやめてしまいます。伝道していても、うまくいかなければすぐにあきらめます。羊は本来そういう存在です。羊は、いつも不満だらけで、言うことを聞きません。しかし、そのような羊一匹一匹が神様にとっては尊いのです。小さな者のひとりでも滅びることは、神様の御心ではありません。神様の関心は、さ迷っているひとりのたましいに向けられているのです。

ここに私たちの悩みと葛藤があります。そのような人一人くらいは見捨ててしまいたくなりますが、神様の御心はそうではありません。憎く、つきあいにくい人でも何十年も待ち続けなければならないのです。その人のために行きたいところにも行けず、したいこともできなくても、神様の関心がその人にあるなら、その人と一緒にいるべきです。その一人の人を神様は覚えておられるのです。

多数のために少数が犠牲になることを神様は願っておられません。もし神様が私のような取るに足りない存在を簡単にあきらめられたとしたら、どうなるでしょうか。神様が私のありのままの姿から私の救いの可能性を評価されるとしたら、私のことなど、すぐにでもあきらめられたでしょう。神様が私を見捨てず、今まで忍耐して待っていてくださる理由は、この小さな者のひとりも見捨てられないという愛のゆえです。神様は、私たちを決してあきらめたりなさいません。

イエス様が羊飼いのたとえによって語られたように、私たちはどんなにお金や力、時間を割くことになったとしても、一人のたましいを救わなければなりません。それが神様が喜ばれる働きだからです。これが宣教の本質です。制度や形式やすべての関係の枠から出て神様の御心を知ることができるなら、私たちは真に神の人になることができるでしょう。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2019年6月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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