ティム・ケラー牧師が語る「教会のリバイバル」 | |||||
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ティム・ケラー牧師が語る「教会のリバイバル」
私は大学生の時にクリスチャンになりました。最初の2年間ほど、私は15名ほどの教会に属していましたが、私が4年生になる頃には150名ほど集まるようになりました。多くの人が救われました。学生のクリスチャン集会では、急に新しいクリスチャンであふれかえるようになりました。私はこのことをどう解釈したらよいのか、わかりませんでした。人の努力によるものではなく、キャンペーンでもなく、メディアも関与していませんでした。何が起こったのでしょうか。私は大学卒業後、ゴードン・コンウェル神学校に行き、教会歴史学者であるリチャード・ラブレイス師から霊的生活の力学という講義を受けました。その内容は、リバイバルに関する歴史的研究についてでした。その授業を受けて私は驚きました。私が大学で見たことがそのまま説明されていたからです。
私は24歳で牧会を始めました。その教会で9年間仕え、その後、神学校で5年間教え、1989年にはニューヨークでレディーマー長老教会を開拓しました。そこで5、6ヶ月経った頃、再び大学で見たのと同じことを見ました。同じ感じで、同じ香りでした。私たちは、マンハッタンの中心で成長しました。その地域は犯罪が多く、人々から見捨てられていた所でした。しかし、教会は2年で千人になりました。当時の私は未熟な説教者だったと思いますが、歴史的にリバイバルと呼んでいたことが、そこでも起こったのです。
リバイバルが起こると、3つのことが起こります。眠っていたクリスチャンが目を覚まし、名ばかりのクリスチャンが変わり、キリスト教に反対していた人々が深い信仰を持つようになるのです。
眠っていたクリスチャンが目を覚ますとは、聖霊によって彼らが悔い改め、救いの確信を持つことです。一般的なクリスチャンの問題は、深い喜びも深い悲しみもないことです。罪に対して自覚がありません。しかし、息子が本当の父親の愛を経験し、自分の身分を自覚したとき、人は変わります。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」(ロマ 8:16)というみことばは、私たちが神の子どもであることを自覚するということを意味します。聖霊が私たちに救いの確信を与えてくださるのです。
またリバイバルは、名ばかりのクリスチャンを変えます。教会は自分がクリスチャンだと思っている人たちの集まりです。リバイバルが起こると、このような人たちは「私は自分がクリスチャンだと思っていたが、違っていた」と言い出します。そして「信仰によって救われるとは、どういう意味か知らずに過ごしてきましたが、今、私は、人生をキリストにささげることを決心しました」と言うようになります。このような人は、教会で人を悔い改めに導く働きをします。多くの人がキリストを信じるようになり、教会が魅力的な場所になり、力のある場所になります。みんなが、それまでとは違う方法で隣人に接するようになります。うわさが広がります。また伝道されて来る人もいます。こうして教会が成長するのです。
リバイバルの神学的根拠は何でしょうか。1つ目は福音の回復です。福音は、律法主義と律法廃止主義の間にあります。この2つは極端なもので、間違いを犯しています。福音は、行いよってではなく、信仰によって救われることなのです。たいてい、律法主義は柔軟性のない保守主義の姿で現れ、律法廃止主義は自由主義の姿で現れます。ですから、リバイバルは、教会が福音主義になったとき、つまり、福音中心の恵みにあふれるクリスチャンの人生に移行するときに起こります。
2つ目の神学的な根拠は、悔い改めです。悔い改めは、真のリバイバルを決定づけるしるしです。悔い改めはさまざまな方法で訪れます。歴史的なリバイバルには喜びもありましたが、同時に大きな恐れもありました。長い沈黙の時もありました。説教で福音がしっかりと伝えられた時は、礼拝堂が静かになっていませんか。リバイバルはある面で、何年間も教会が静かになることを意味しています。争いも自慢のし合いもありません。全能なる神の前で静かにへりくだります。
3つ目の神学的な根拠は、油注ぎのある礼拝です。油注ぎのある礼拝とは、ノンクリスチャンを含むすべての人が、神の臨在を感じる礼拝です。イザヤ書6章には神殿に入ったイザヤが高き御座に座しておられる主を見て倒れたとあります。それは、イザヤが神様に本当に会えると思っていなかったからです。コリント人への手紙第一には「……信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう」(Ⅰコリ 14:24~25)とあります。そのような神の臨在のことです。
私たちは、このような神学根拠のある礼拝を期待し、神様に仕えていくべきなのです。
本文は、CGNTVの番組を要約したものです。