なぜ宣教なのか | |||||
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なぜ宣教なのか
ド・ユッカン Duranno 海外宣教会 本部長
「なぜ宣教なのか」
質問形式であるこの短い文章は、オンヌリ教会の信徒たちのための養育プログラムの一つである「信徒のための宣教スクール」の名称です。同時に、すべてのクリスチャンが自らに投げかけるべき質問でもあります。「なぜ宣教について学ばなければならないのか」「信徒の私に、宣教がどんな意味を持つのか」「なぜ教会は宣教しなければならないのか」など、多様な形で質問することもできます。このような本質的な質問に対してお答えしたいと思います。
なぜ宣教なのでしょうか。第一に、神様の栄光のためです。神様は、この世のすべての創造主です。その方が造られたすべての被造物から栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。しかし、この世は罪によって堕落し、神様に背くようになりました。ですから、宣教は、罪によって神様から離れたたましいを再び捜して神様に立ち返らせる働きであり、神様にささげるべき栄光を回復することです。神様はこの世を創造され、今でもこの世を治めておられ、保っておられます。神様のかたちを失い、堕落した人間を回復させることこそが、神様の最も大きなみこころです。神様は、そのためにご自分のひとり子イエス・キリストを喜んで遣わしてくださいました。ですから、聖書は神様のストーリーであり、そのストーリーは一つの一貫したテーマを持っています。それは「人類の救い」であり「神の国の回復」です。聖書が「宣教の書」と呼ばれるのは、このためです。「わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない」(イザ 42:8)。
第二に、すべての人間が神様の救いを必要としているからです。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ロマ 3:23)。人間は、神様に逆らい、悪い行いによって自ら「神から離れ、敵意を」抱く者となりました(コロ 1:21)。自然のままの人間は、放っておけば皆、地獄に行くしかありません。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています(ヘブ 9:27)。そのさばきの座に立ったとき、「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(Ⅰヨハ 5:12)。御子イエス・キリストを知らない状態の人間は、決して永遠のいのちを持つことができません。「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハ 3:36)。今でも人類の7割以上がこのいのちの福音を知らず、今この瞬間にも永遠ののろいの中で死んでいっています。
第三に、神様が人間のために救いを準備されたからです。これこそが、最も良い知らせ、すなわち「福音」です。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ロマ 5:8)。私たちに救われる資格があるからではありません。神様の私たちの対する一方的な愛のゆえです。これを「恵み」と呼びます。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」(エペ 2:8)。人間は、自分の努力で救いを得ることができないので、神様が人間のもとに来てくださいました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マコ 10:45)。これが、神様の宣教であり、イエス・キリストは人類のための最初の宣教師として来られました。それならば、イエス・キリストを信じて救われた信徒たちと教会の使命は、明らかです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハ 14:6)と言われたイエス・キリストを人々に伝え、滅びに至る道に行かないようにしなければなりません。この働きを、宣教と呼ぶのです。
第四に、神様がこの救いを宣べ伝えるために、ご自分の民を立てられたからです。神様は、この救いの知らせが少数の人々にとどまっていることを願われません。この福音の奥義は、前の時代には知らされていませんでしたが、今はすべての人々に広く知らされるべき喜びの知らせになりました。「『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです」(ロマ 10:13)。そこには、何の制限もありません。人種や国家、性別、貧富の差や知識の有無など、なんら差別はありません。すべての人々に与えられている最も公平な恵みは、神様の救い、すなわち福音です。
ところで、なぜ今でも多くの人々がこの救いを受けられないでいるのでしょうか。続くみことばで明らかにされています。「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです」(ロマ 10:14~15)。
貧しい人々の母と呼ばれたマザーテレサは「世の中には飢えている人がたくさんいますが、人々が飢えるのは、パンがないからではありません。パンがあるのに分かち合わないからです」と言っています。この世のパンや富が一部の人々に集中していて、それが分かち合われていないので、他の場所では飢えて死ぬ人がいるのです。同様に、この世の多くの人々が永遠の死に陥っているのは、福音がないからではありません。福音を分かち合っていないからです。福音を受け取ったなら、それを分かち合う使命も受け取ったのです。そのために、イエス・キリストが弟子となった私たちにこう命じられました。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタ 28:19~20)。イエス・キリストを救い主として信じるすべての人々に与えられた、拒むことのできない命令です。
第五に、教会はこの使命のために建てられたからです。宣教は、教会が存在する理由であり、目的です。E. ブルンナーが言ったように「火が燃える時だけ存在するように、教会は宣教する時だけ存在することができる」のです。宣教を通して教会が建てられ、教会は宣教のために存在します。教会は、確かに礼拝と信徒たちの霊的成長、交わり、奉仕のために、多くの働きをしなければなりません。しかし、最も本質的なたましいの救いのための働きに集中しないなら、職務放棄をしているとみなされても仕方ありません。
灯台に灯をともす灯台守がいました。ある日、その島の農夫が来て、農業機械に必要な油を求めました。心優しい灯台守は彼に油を分けてあげました。その数日後、貧しいやもめがやって来て、子どもたちが勉強するために必要な灯をともす油を分けてくれないかと頼みました。そのようにしているうちに月末には油が足りなくなり、灯台に灯をともすことができず、ある夜、船が座礁するという大事故が起こりました。この灯台守は、良いことをしたからといって、責任を免れることができるでしょうか。彼がしたことは良いことかもしれませんが、彼の使命は果たせていません。
教会の最も本質であり、緊急な使命は、福音を宣べ伝えることです。神様は、この地の教会が恵みの貯蔵庫ではなく、恵みを運ぶパイプになることを願っておられます。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテ 2:9)。
第六に、宣教は完成されるものだからです。私たちは、歴史の最終的結論を知っている者たちです。私たちは、神様がまず使徒ヨハネに見せてくださった終わりの日の栄光に満ちた場面を見ることができます。「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある』」(黙 7:9~10)。終わりの日に成就される幻は、宣教に対する強いビジョンを抱かせます。宣教は、必ず完成し、神様の完全なみこころは実現します。神様は預言者イザヤはを通して次のように語っておられます。「わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く」(イザ 11:9~10)。創世記からヨハネの黙示録まで一貫しているメッセージは、神の国の回復のための神様の宣教です。この働きは、すでにゴルゴダの十字架から始まっており、今も教会を通して続き、遠くない未来に完成されるでしょう。私たちはその日が必ず来ることを知っているのですから、その日の完成に向かって宣教の働きを続けていかなければなりません。
日本の教会が海外宣教に献身するには、まだ財政面や人員面で力が十分でないのも事実です。しかし教会は、成長した後に宣教を始めるのではなく、宣教を通して成長していくべきです。韓国の教会も、福音を受け入れて間もない1912年に、中国の山東省に3名の最初の宣教師を送りました。当時、国内にも福音を聞いていない人々が多く、深刻な貧困により生存が危ぶまれるような時期でした。しかし、もっと大きく聖なる使命のために、献身の歩みを始めたのです。神様は、そのような熱心と献身をご覧になり、今日、韓国を宣教大国に成長させてくださいました。韓国の教会と日本の教会が世界宣教のためにともに助け合って献身していく日を願い、祈っています。
ド・ユッカン
長老会神学大学院(神学 修士)。
フラー神学大学院(宣教牧会学 博士)。
韓国 ヤンジ・オンヌリ教会 主任牧師。
Duranno 海外宣教会(TIM)理事。
本文は、『リビングライフ STORY 2020年1月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。