視点を変えた時から始まる宣教 | |||||
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視点を変えた時から始まる宣教
ド・ユッカン ソウル・オンヌリ教会牧師
世界に生きている私たち
今日の世を説明する最も適切な単語は、「世界」でしょう。いまや未来学者でも5年以上先を見通すことができないくらい、世は急速に変化しています。先端の通信技術や設備、人工知能は日常生活の一部になり、マクドナルドやコカ・コーラは、もはやアメリカだけの食べ物ではありません。グーグルやトヨタ、サムスンといった企業の名は、世界のどこでも通用するようになりました。私たちは、世界で生きる世界市民です。ところで、そのような変化の中で、最も遅れて反応するのが、私たちの心です。世界がどんなに変化しても、心が閉ざされたままでば何も起こりません。視点が変わらなければ、世界の変化は見えません。
そのような意味で、私は2千年前、ガリラヤの小高い丘で主が語られた偉大な命令には、とても驚かされます。復活されたイエス様が天に上げられる前、弟子たちに残された遺言的な命令を聞いてみましょう。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マコ 16:15)。2千年以上も前ですが、当時の環境を想像してみると、全世界に対するこのようなチャレンジは、驚異的でさえあります。全世界の主人であられる神様の御子でなければ、できない命令です。
このみことばを聞いた弟子のほとんどは、漁師や、極端な民族主義者者でした。彼らは生まれ育ったパレスチナ地域から一度も出たことのない田舎者でした。そのことをよくご存じのイエス様が、彼らが経験したことも想像したこともない全世界に対するビジョンを与えられました。見てください。彼らが働きをするべき活動舞台は、地理的には「全世界」であり、種族的には「すべての造られた者」でした。ギリシア語の原語では「クティシス」で、すべての被造物を意味します。イエス様が弟子たちに委ねられた使命は、すべての人に福音を伝えることだけでなく、罪によって歪んだ被造世界全体の救いにまで及ぶのです。どんな人でも、どんな場所でも、福音を必要としない存在はなく、世が私たちの仕えるべき宣教地であることを教えてくれています。このように、イエス様の弟子となるということは、私たちの視点を超えて、「神様の視点によって世を見なさい」という招きなのです。
世界を抱くクリスチャンになるために
ところで、私たちの中には、「世俗的なクリスチャン」と「世界を抱くクリスチャン」がいます。前者は、世のものが大切で、いつも自分中心の「自分ファースト=自分優先」の信仰生活をしています。その人の祈りの中心は、いつも自分です。自分の生活の中で必要なものを満たしてくださることを求めて祈ります。世の必要に対して無関心で、神様がどんなご計画を持っておられるかについても関心がありません。自分が恵みを受け、自分が祝福されることにだけ関心があります。これは、自分の目的のために神様を利用しようとする態度です。
一方、後者の「世界を抱くクリスチャン」は、世に仕えるために自分が救われたということがよく分かっている人です。今、自分が存在している理由は、神の国とそのみこころを成し遂げることだということを受け入れた人で、「神ファースト=神様優先」の人です。神様は、すべての神様の子どもたちが世界を抱くクリスチャンになってほしいと願っておられます。そのような人は、神様のように世を見なければなりません。そして教会には、そのことを教える使命が与えられています。
では、どうしたら世界を抱くクリスチャンに成長できるのでしょうか。それには、4つの面で視点の転換が必要です。第一に、自己中心的な考え方から「他者中心的な考え方」への転換です。一個人の人格的な成熟を可能にする尺度は、自分がどれほどほかの人々の世界を知り、受け入れているかにかかっています。未熟な子ども時代は、すべてを自分中心に考えますが、成長すると自分以外の世界を受け入れられるようになり、人に配慮し、人の考えを尊重できるようになります。
クリスチャンの成熟は、心の地境が広がることを意味します。何よりも、真実なクリスチャンは、神様の心を抱きます。まず神様のみこころを考え、神様のご計画に合わせて自分の人生を調整します。使徒パウロは、自己中心的だったコリントの教会の信徒たちに、このように勧めています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい」(Ⅰコリ 10:31~32)。弟子は、他人のために存在し、世のために存在します。学んで人に与え、持っているものでほかの人に仕えるのです。私たちの主は、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。……あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という二つの戒めに、すべての律法と預言者の全体がかかっていると言われました。それが、しもべの生き方であり、弟子の生き方です。
第二に、地域的な考え方から「世界を抱く考え方」への転換です。人間の基本的な心情は、慣性の第一法則の支配を受けます。自分が慣れている地域や環境にとどまる傾向があります。自分の仲間を作り、出身地や出身校などに愛着を持ちます。他人に対して排他的になり、「属している集団」で安心感を味わいます。しかしイエス様は、「行け」と命じられ、すべての造られた者と地の果ての国々まで抱くようにと言われました。パウロはアテネの通りで次のように伝えました。「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました」(使 17:26)。神様は、あらゆる民族と国を統べ治めておられます。国と国、民族と民族、宗教と宗教が対立し、戦うことは、神様のみこころではありません。私たちの主は、カナンの神々のように、特定の民族だけを保護し、祝福する守護神ではありません。全世界に主のみこころが広く成し遂げられることを願っておられます。神様の心を抱いて、世を見なければなりません。世界が主に属しているなら、私たちも世界を私たちの働きの場として捉えなければなりません。世界のあちこちで起こっている問題に関心を持ち、祈らなければなりません。奥まった部屋での祈りで世界を抱くしもべにならなければなりません。
第三に、目の前のことだけを見る考え方から、「永遠を見つめる考え方」への転換です。私たちが生きている世は、しばらくとどまって通り過ぎる停留所のようなものです。わざわざ家を出てテントで過ごすキャンプが楽しいのは、戻る家があるからです。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(Ⅱコリ 4:18)。永遠の世界を見つめるなら、この地で何のために生きるべきかが明らかになります。しばらくあってもなくなってしまうもののためにではなく、目には見えなくても永遠の時に備えて生きるべきです。今、私たちが持っているすべては、それが有形でも無形でも、しばらくの借りものです。以前、だれかが用いていたものを、今、私がしばらく使っていますが、いつかまた返さなければなりません。レンタカーを借りて使っているようなものです。レンタルした人生のために、あまり多くの時間や愛情を注がないことが、知恵深い態度です。手で建てたものではない永遠の家に住む時まで、地に住んでいても天に属する者として生きなければなりません。何が私たちの心を揺さぶるでしょうか。どこに喜びを求めていますか。心を永遠の世界に定めてこそ、この地のすべての事柄の優先順位を正しくすることができます。
第四に、義務や負担による心から、「愛によって従う心」への転換です。神様を信じ、基本的な聖書の知識のある信徒であれば、伝道と宣教の使命について知らないはずはないでしょう。ただ、負担に感じ、したくないので、言い訳を探します。「私には伝道の賜物がないから」「私の宗教をほかの人々に強要することは、害を与えることだと思う」「私はもう歳をとりすぎている」「私は先天的に弱いから、できない」などです。しかし神様は、私たちの言い訳を受け入れられません。聖書の偉大な人物であるアブラハムやモーセ、エレミヤ、ギデオンも、使命を避けるための道を探しましたが、神様は最後まで彼らを呼ばれました。エレミヤを召されるときに与えられたみことばを心に留めましょう。「主は私に言われた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば』」(エレ 1:7~8)。すべてのクリスチャンは、「王である祭司」(Ⅰペテ 2:9)として、世に対する使命が与えられている存在です。私たちは、神様からの大いなる愛の借りがあります。その借りは、まだ救われていない世に対する借りです。宣教の動機は、神様に対する愛であるべきです。愛は、死よりも強く、愛はすべての限界や妨害を乗り越えさせます。宣教は、神様を愛し、滅びるしかない隣人を愛する心を奮い立たせる行動です。
神様の子どもたちに与えられた使命
創世記12章には、当時、一人の部族長にすぎなかったアブラハムに起こった、パラダイムシフトが記されています。神様は、古代バビロン文化圏で、平安で安らかに生活していたアブラムに、「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れ」なさいと言われました。そして、何も保障のない荒野へと導かれました。それとともに、彼の名を大いなるものとし、彼が祝福の源となり、すべての部族が彼によって祝福されると約束されました。命令と約束が合っていないように見えますが、何も保障されない道へと旅立ったとき、最も大きな保護と恵みを味わうという、このアイロニーこそが、信仰の奥義なのです。去ってこそ、安全です。捨ててこそ、満たされます。あきらめてこそ、高く上げられます。小さな部族共同体の代表にすぎなかったアブラムが迎えた人生の転換は、彼をすべての民族に祝福を流す存在に変えました。
明らかに世は猛スピードで変化しています。私たちの未来は、不確実なことであふれています。しかし、神様は「全世界はわたしのものである」と言われ、また「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と言っておられます(出 19:5~6)。天地万物の創造主であり、世界を統べ治めておられる方が、ご自分の子どもたちに世のための祭司の役割を果たすよう命じておられます。私たちに「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタ 28:19)と命じられた神様は、同時に「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」とも約束してくださっています。一度しかない人生です。歳月が流れ、朽ちてなくなる人生ではなく、主のために献身し、主に似ていく人生を生きましょう。地上の住まいである幕屋は、いつか壊れるものなのですから。
ド・ユッカン
韓国 長老会神学大学院(神学 修士号)。
米国 フラー神学大学院(宣教牧会学 博士号)。
韓国 ヤンジ・オンヌリ教会 主任牧師。
Duranno 海外宣教会(TIM)理事。
本文は、『リビングライフ STORY 2020年2月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。