祈りはどのようにするのですか? | |||||
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祈りはどのようにするのですか?
イ・サンヒ ホサナ教会 主任牧師、プリンストン神学校 旧約学博士
私はカチューシャ(在韓米軍に服役する韓国人兵士)として服務しながら、時間があるときは兵営内を走っていました。運動が好きそうな新兵に一緒に走ろうと声をかけると、「読んでいる本を読み終えたら走ります」という答えが返ってきました。何の本か気になり、数日後、どんな本を読んでいるのかと聞いてみました。すると彼は、『どのように走るか』(How to jog)という本だと答えました。役に立ったのかと尋ねたとき、その答えに笑わせられたことは忘れられません。「どのように走るのかも重要だが、怠けず外に出てとりあえず走り始めなさい」というのが著者のメッセージだったそうです。言い訳をせずに走る習慣が、何よりも重要だということです。
祈りは「どのように」の前に実践の問題
祈りに関する説明を聞いたり、本を読んだりすることよりも大切なのは、今すぐ祈りを始めることです。祈りを習慣にし、絶えず祈るのです(Ⅰテサ 5:17)。それは、だれにとっても簡単ではありません。ダビデは「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている」(詩 27:4)ということばを残しました。「願った」と訳されたヘブル語の動詞「シャアルティ」は完了形で、「求めている」と訳された「アバッケシ」は未完了形であるため、「私が主に願いながらも、しなかった一つのこと、それを今、求めます」という意味に解釈できます。「祈らなきゃ、祈らなきゃ」と言いながら祈らず、つらいことに直面したとき、ようやくひざまずいて祈るような私たちの経験が、ダビデにもあったのでしょうか。ほかでもない、祈りの人ダビデなので、そのように解釈することに自信はありませんでしたが、ある日、私が尊敬している牧師先生が「生涯祈ってきたのに、いまだに祈りが一番難しい」と言われたのを聞いて、祈りはだれにとっても難しいのだと思わされました。
祈りはだれにとっても難しいことなので、神様は祈る人に報いてくださるのです。ダビデは、先ほど紹介したみことばの中で、その報いを「ノアム アドナイ」(主の麗しさ)と表現しています。「ノアム」は「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから」(ルツ 1:20)に出てくる「ナオミ」(「快楽、楽しみ」という意味)と語源が同じです。その意味は「マラ」(「苦しみ、苦痛」という意味)と反対であるため、「ノアム アドナイ」は「アドナイ」、つまり主が喜び、楽しませてくださることを意味します。私たちが祈るとき、神様が私たちの内面を楽しませてくださるのです。ダビデが主に呼び求めると「あなたは私のために / 嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き / 喜びをまとわせてくださいました」(詩 30:8~11)と言っています。私たちの問題は、祈らないことにあります。
涙の祈りに応えられる神様
神様が喜ばせ、楽しませてくださる「ノアム アドナイ」のみわざは、哀れな人、助けが必要な人に臨むのではなく、涙をもって祈る人に臨みます。世に苦しみのない人はいません。子を産めなかったハンナだけが苦しかったのではありません。多くの子を産んで育てたのに、愛されなかったペニンナも苦しかったことには変わりがありません。しかし、神様に泣きながら祈ったハンナは(Ⅰサム 1:10)、「ノアム アドナイ」の恵みをいただきました。神様はご自分の子どもたちの涙を尊く思い、涙の祈りに応えてくださいます。ダビデはその信仰によって「どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください」(詩 56:8)と祈りました。神様の前で泣く人には、笑う日が来ますが、神様の前にひざまずいて涙を流さない人には、人の前でひざまずいて涙を流す日が来ます。涙がないことが私たちの問題です。
神様の応答は、しるしによる確信を求める人ではなく、どんなときにも神様を認め、感謝する人が経験することができるのです。神様は、奇跡も行ってくださいますが、小さな助けによって大きな違いを生み出される方だからです。ピッチャーの投球が数センチずれただけで、ボールになったりストライクになったりしますが、それによって勝敗が分かれます。その小さな違いに神様の助けを見る人は、感謝をもって「神様が祈りに応えてくださった」と告白します。しかし、この小さな違いを認めることができない人は、神様が祈りに応えてくださらないと、不満を言うばかりです。
本文は、『リビングライフ STORY 2020年3月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。